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SNSで批判的なコメントが消されてしまう件について

私はユーチューブやインスタグラムなどのSNSが大好きだ。見すぎると時間泥棒だが、適度に見る分には他人の考え方を知れる。専業主婦であまり他人と交流する時間が少ない私にとってはありがたい存在だと思っている。

でもユーチューバーやインスタグラマーが好きすぎるあまり、知らず知らずのうちに勝手に「こういう生活や動画が見たい」と期待してしまうところがある。
それで、自分の意にそぐわない動画が上がると「違う!」とか「過去の方が良かったと思う」とか自分勝手な感想を持ってしまう。書いていて「自分勝手だなあ」とも思うけれど、よっぽど不快にならない限りコメントすることはない。

だけど時にはどうしようもないくらい「不快」になることもある。そういう場合はコメントに書いて伝えるべきなのか自分がそっと登録解除すればいいのか悩む。
意を決して、コメントを書いてみるものの、そういう批判的なコメントは往々にして削除されてしまうことも多い。実際私も経験している。
そうして改めてコメント欄を読むとそういう批判的なコメントは一切消されて絶賛コメントばかり並ぶ。ますます投稿者に対して「もやもや」は募る
同じように思ってくれた人は、何人もいて「共有したい」と思ってもコメント欄が消されてしまうとそれもできなくなる。
やり場のない思いはどうしたらいいのか?

人は誰しも承認欲求を持っている。
閲覧者も多かれ少なかれ自分の意見を聞いてほしいはず。
好意的なコメントも批判的なコメントも自分の大切な時間を使って書いてくれているはず。それなのに投稿者の短絡的な思いで「自分を攻撃している」と思い
一方的に切り捨て、コメントを削除するのはいかがなものか?
投稿者の横暴にも思えてくる。

ただ私は全部全部の意見を受け入れてほしいとは思っていない。
「ただ受け止めてほしい」だけなのだ。
こういう風に考えている人もいるんだ」ぐらいにいてくれればそれでいいのに。コメントを消されてしまうと、それぐらいも許してはくれないんだ、私がこの人に費やした時間とお金はなんだったんだとも思ってしまう。
ひどいとそれが憎悪につながり、本当に誹謗中傷ばかりしてしまう人になるかもしれない。投稿者に対して初めは好意を持っていたはずなのに、一方的に切り捨てられたり、投稿者からさらに反論されたりすると人間それが憎悪に代わるということも考えてほしい。

実際私はある投稿者に好意を持っていたはずなのに、コメントを削除されたせいで「憎悪」に思ってしまいその投稿者の粗探しばかりしてしまっている時があった。
その投稿者に直接コメントしたりはしなかったものの、ずーっとモヤモヤが残りノートや手帳にネガティブな思いを書き殴ったこともある。
好きだったからこそ、裏切られたことで憎悪に変わってしまったのだ。

冷静に考えてみれば、もうその投稿を見なければ済むだけの話なのに
コメントが削除された=自分を蔑ろにされたという思いがどんどん強くなり
その思いをどう消化すればいいのかわからなくなっていた。
本心で言えば、その思いを投稿者にぶつければいいのだが
昨今「誹謗中傷」には厳しいし、名誉毀損を訴えられるかもしれないからそれもできない。
この思いは自分でなんとかしなければならないんだと思い
手に取ったのがこの本だ。


この本には「手放しワーク」に取り組んで、執着を手放すということを実践していく。

質問1 あなたは今日、誰を手放す?
質問2 その人との間にどんなことがあった?
質問3 手放す目的、理由は?
質問4 手放すと、どう変わる?
質問5 今、その人に伝えたいことは? 

「もう傷つきたくない」あなたが執着を手放して「幸せ」になる本より

この本の中には、「御恨み帳」とやらも登場し徹底的に自分のネガティブな感情を書き出そうという項目もある。
とにかく自分の感情や考え方の癖を見つめて、人やものへの執着を解放しつつ、執着に映し出された感情も一緒に解放しようというのが筆者の考えだ。
この本は、毒親や離婚したいけどできない夫、辞めたくても辞められないギャンブルやお酒など依存症を持つ方にもおすすめの本。
なぜ執着してしまうのか、捨てよう捨てようを思っても捨てられないものを
「感謝」の気持ちも持って手放していくのが気持ち良い。

SNSに話を戻して・・・

その投稿者が再び「自分にとって」不快な言動をするのであれば、変に執着しないでスッと登録解除してもう見ないようにしなければいいだけなのだ。
いくら自分の意見を言ったところでその人は変えられないと諦めよう。


変えられない投稿者に執着しないで、
変えられることができる自分を大切にしよう。


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