自己紹介
整体の効果=免疫力×身体の連動性
だと思ってます。
はじめまして。整体師の松田博明です!好きな食べ物はカレーです!ちょっとスパイス強めの自己紹介をさせていただきます。
生まれは東京三鷹市。幼少期から身体が弱く、アトピー性皮膚炎や喘息で病院にばかり行ってました。この頃は井の頭公園の池で鯉にエサをあげることが生き甲斐でした。
学生時代は3年間引きこもりになり、テレビで格闘技をみるのが唯一の楽しみでした。
そんな自分を変えようとボクシングジムへを通い出したことがきっかけで人生にも変化が。
野球もサッカーも続かなかったのですが、唯一ボクシングだけは夢中になってやってました。後楽園ホールでのデビュー戦は最高にスリリングでした。(当時19歳)
しかし、プロの世界は甘くはなく勝ったり負けたりの繰り返しでした。
さらに、人生をかけて挑んだトーナメントの試合1週間前に手を骨折してしまいます。
ドクター「綺麗に折れてますね」
中手骨頚部骨折(ちゅうしゅこつけいぶこっせつ)
何のこっちゃわかりませんでしたが病院の検査結果を聞いたときはショックで言葉を失いました。
西荻窪の駅を出てジムのトレーナーに電話したときは思わず弱音を吐いてしまいました。家に帰り、ミッシェルガンエレファントの曲を聴きながら現実逃避したのを覚えてます。
終わった。
あんなに練習したのにな、、、という感じでした。しかも対戦相手は無敗の優勝候補。正直ビビりました。それでもやるしかない。左手1本で勝負しよう。強行出場だ。
結果はトレーナーの作戦が見事にハマり奇跡的に勝ち上がることができました。
このとき、最後まで諦めないことの大切さを学びました。トーナメントはその後KO負けで敗退してしまいましたが、今もいろんなことに挑戦し続けることができているのはボクシングの試合を経験してきたからだと思ってます。
素晴らしい環境を与えてくださったジムの会長、トレーナー、一緒に練習してくれた仲間、応援してくれた方々のおかげです。
ここが自分にとってのバックボーンになっています。それは整体師になっても変わりません。
ただ、パンチを繰り出し相手を「倒す」ことばかり考えてきた自分が逆に身体を整え『癒す』という仕事をするにあたって最初は様々な変化を求められました。(23歳で転職)
といった具合にガラっと変わりました。笑
そんな中、何より難しく感じたのは女性の気持ちに寄り添うことです。
(整骨院に通う人の約7割が女性でした)
言葉よりも拳で語る男性の方々に揉まれながらジムで過ごす期間が長かったため、女性の気持ちというものがさっぱりわかりません…
意外にも整体師になって最初に痛感したのは「会話」の大切さでした。
・話を聞く姿勢をみせること
・相手の気持ちを想像すること
・質問に対してしっかり答えること
どれも当たり前のことかもしれませんが当時の自分にとってはめちゃくちゃ意識してないとできないことでした。
当時勤めていた整骨院では指名制をとっており、人気のある先生は技術ももちろん素晴らしいのですがなんと言ってもコミュニケーション能力が圧倒的に高かったのです。
とにかく喋り下手だった自分はまず無口なボクサー→相談しやすい整体師へと変貌をとげる必要がありました。
技術も知識も薄っぺらかった新人時代に指名を獲得するには「若いのに頑張ってるわね」とお婆ちゃんに可愛がってもらうしかありませんでした。笑(当時23歳)
少しずつ経験を積み、専門学校を卒業した後は中野にある整骨院で施術をしておりました。その頃にはたくさんの指名をもらえるようになり、朝から晩まで充実した日々を過ごさせてもらってました。
しかし、経営者さんが高齢だったため勤めて僅か2年で閉院することに。
それならと2014年MYヒーリング整骨院を開業します。
ボクサー時代の仲間や勉強家のスタッフとともに寝ても覚めても臨床、臨床、臨床といった感じで徹底的に身体と向き合いました。(当時27歳)
経営のことはよくわからなかったため365日営業を3年間続けました。1人ブラック企業みたいな感じでこの頃はとにかく体力勝負!荒削りではありましたが、気がつけばたくさんの方が通ってくださるようになってました。
プロボクサー成田永生さん。病院で「もう治らない」と言われ絶望していたので施術させてもらったところ復活し、日本ランキング3位の選手にまでなりました。
プロボクサー中山佳祐さん。ものすごい練習量だったため初診時は全身ボロボロでした。免疫力も下がっており、いつも呼吸が苦しそうだったので毎回試合直前まで施術させてもらってました。東洋太平洋チャンピオンになってくれたときは感動して泣きました。笑
プロボクサー船井龍一さん。パンチ力が強すぎて身体にかかる負担も大きかったため大事な試合の前に肩を負傷してしまいます。前日ギリギリに痛みがとれアジアチャンピオンに。その後は世界ランキング1位にまでなりました。
プロボクサー荒川仁人さんと近藤明広さん。お2人とも世界ランキング1位の選手です。荒川さんは現在、東京府中市にあるJapanese Rockyジムの会長に。近藤さんは今も現役世界ランカーとして活躍しています。
他にも、膝の痛みを乗り越えて荒川のマラソン大会で優勝された女性や、ギックリ腰を乗り越えてろうの高校野球で2連覇を達成した学生さんも。
こんな風に、誰かの挑戦をサポートすることが喜びです。自分自身はボクサーとしてよい結果を残すことができませんでしたが、素晴らしいアスリートの方々に身体を預けてもらえたことで治療家として生きていく自信になりました!
もちろん、通院していたのはアスリートだけではありません。中野区議会議員の立石りおさん(無所属)も政治活動の疲れを癒すため何度も施術を受けに来られてました。
政治活動は想像以上に体力勝負なところがあり、立石さんは毎日のように朝から晩まで中野区周辺の駅に立ち活動し続けました。
アーティスト諸石和馬さんはshiggy Jrのドラマーとしてメジャーデビュー。フジテレビ系ドラマ『僕らは奇跡でできている』のOP曲に抜擢された頃、手を握るだけでも関節が痛むような状況で来院。表舞台で活躍している人は想像以上に過酷な環境に身を置いていて、ギリギリの状態で活動を続けていることも多いです。
本当にたくさんの方の人生に関わらせていただきました。
こんな感じで、20代の頃は若さと勢いで開業したらたまたま上手くいっちゃった!みたいに見えるかと思いますがこの後ちゃんと壁にぶち当たりますのでご安心を。笑
そう、開業して3年間は奇跡的に順調でした。もちろんトラブルもありましたが、それ以上に応援してださる方々の後押しのほうが大きかったため力がみなぎってました!
改善できない痛みがあると悔しくて悔しくて仕方がなかったけれど、銀座オステオパシーセンターというところにも通わせてもらうようになり技術を学んでいると眠気もふっ飛びました。
個人的には結婚して子供もできました。そんな中、守りに入りたくなる気持ちも出てきました。(当時30歳)
こういうとき、ボクサーだった頃の感覚が蘇ってきます。守りに入っている場合じゃない。むしろもっと貪欲に挑戦していこう!ということで家族やスタッフとも話し合い整骨院の「脱保険」を決めました。
想像以上に難しかった脱保険
保険を使えば低単価で通いやすいプランをご提示できるのですが、それではどうしても1回につき10分程度の施術になってしまいます。なかなか改善が難しい痛みに対してもっと徹底的に向き合いたい!という気持ちが強まり脱保険を決めました。
正直、お世話になった方々に相談したときは「リスクが大きいんじゃないか?」というお話もありました。しかし、当時の自分は少し天狗になっていたのだと思います。
結果、院の売上は半分に。
このとき、はじめて経営者になるということの重みを知りました。
スタッフの方々への給料、家族の生活費、テナント料、電気代、広告費、賃借料、などなど…
ズシーーーン!!!!!
と乗っかってきました。
毎月30万以上の赤字が続きました。スタッフの人生がかかっているし、子供も生まれたばかりだったので何とかしなければなりません。しかし、当時30歳の自分にはまだまだ体力がありました!閉院したあと、深夜のコンビニで働くようになったのです。(ファミマ)
そんな生活が約1年半続きました。
まだまだいける!と思っていたのですが免疫力が下がったせいかアトピー性皮膚炎が再発。自分の食費を抑えるためコンビニの廃棄ばかり食べていたので内臓が弱ったのでしょう。整体師として何の説得力もない顔面になりました。
それでも自分を信用して通院し続けてくれた人には心から感謝しています。ここで踏ん張ることができたのは開業当初からずっと応援し続けてくださった方々の存在が何より大きいです。
今も兵庫県で整体院をやりながら月1で東京に出張しているのはこのような体験があったからです。支えてくださった方々に対しては、今後もできる限り施術をしに行って恩返ししたいと思ってます。
そんなこんなで貯金を切り崩しながらも何とか復活の糸口を掴もうと動いていたある日、中野駅を歩いているとお世話になっていたボクシングジムの会長と偶然会いました。
会長は僕の顔を見るなり「お前ちょっと来い」と言って話をしてくれました。
よっぽど酷い顔をしていたのでしょう。経営が上手くいっていないのを察して相談にのってくださいました。
「必ず復活します!」と力を振り絞って答えたのですが会長は首を横に振りました。
そして『今のお前にはあそこで整骨院をやるだけの実力がないんだよ』と言いました。ちゃんと現実をみろということだったのでしょう。ボクシングでいうとタオルを投げて試合を止めてくださったのだと思います。
諦めの悪い自分は、会長に止めてもらってなかったら死ぬまでやっていたかもしれません。
その後、院に戻りスタッフに土下座をしました。
真剣に技術を学んくれていたスタッフに現状を伝えるのは心苦しかったです。本当に申し訳ない。通院してくれていた人たちにもどう伝えたらよいものか、考えても考えても言葉になりませんでした。このときもたくさんの人にアドバイスをもらって、一人一人やっとの思いで伝えていきました。
これほどまでに自分の不器用さを感じたことはなかったです。
最終的には整骨院を売却し、その資金を元手に移店しました。2019年9月、規模を縮小し一人治療院という形で一からやり直しました。(当時32歳)
経営はV字回復。
息を吹き返しました。
心の水分量が増えていく。
そんな感覚でした。
今、振り返ってみると技術に助けられていた部分が大きかったなと思います。正直、人間の心や身体を整えていく上では技術よりも「マインド」の部分の重要性を感じていました。
しかし、コンディションが悪いときに助けてくれるのはいつも技術です。人間である以上、いつでも絶好調!という訳にはいきません。
改善の幅を広げるため技術を学ぶ先生は多いですが、実は「再現性」を高める上でも大切なのが技術であると考えてます。
そんなこんなで徐々に人間らしい生活を取り戻し数ヶ月が過ぎた頃でした。
コロナウイルス日本上陸。
その後もいろんなことがありました。SNSでのたくさんの人との出会い。クラウドファンディングへの挑戦。大切な人との別れ。35年住んだ東京→兵庫県への移店。
生きてたらそりゃ、色々ある。
この仕事をやっていると症状や生活習慣だけでなくパーソナルな悩みをお話いただく機会も多いです。(無理に聞き出そうとはしませんが)
そうやって様々な人生に関わらせてもらっているとまぁみんな色々ある。笑
言わないだけで壮絶な体験をしている人がたくさん。僕よりもずっとスパイスの効いた話をみんな持ってる。
これからもそんな方々をサポートしていきたいです。
変化の激しい時代になりました。「不安」を抱えている人が多いです。2足歩行な我々は構造的にも「不安定」です。
免疫力を高め身体の連動性をつけることで人は心身ともに『安定』します。
整体の効果=免疫力×身体の連動性
だと思ってます。
免疫力を高める→内臓調整
連動性をつける→関節調整
ここをしっかりやっていきます。
長文失礼いたしました。
最後まで読んでくださった方は公式LINEの方にスタンプなど送ってもらえると嬉しいです!
こんな長い自己紹介を読んでいただき、本当にありがとうございました!
それではまた。
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