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世界を一生懸命見なくていい。

私は近視で、視力矯正しないとテーブルの上に置いたノートに自分で書いた文字も読めないぐらいです。普段は眼鏡かコンタクトレンズを付けて生活しているんだけど、たまに、どちらも付けない状態で過ごすのがとても好きです。

目に映るものたちの輪郭がすべて混ざって曖昧になって、看板の文字なんか1つも読めなくなって、目はなんだかすごく軽い。
とくに終電で最寄り駅まで着いたときに、家まで歩く道で外して歩くのが大好きです。信号や街頭のライトがすごく綺麗。もう車もいなくて危なくないしね。

そうやって、目が悪くてよかった!なんて思いながら視力OFFを楽しんでいたんだけど、そういえば、そうしている時間はなんとなく「自分と向き合う感じ」があることに気が付きました。
自分の内面に意識が向く感じがする。一人で旅行しているときに近いような。

眼鏡をはずすと、世界の解像度が下がって、自分の解像度が上がる。

これはたぶん、「使える意識が限られている」ということなんじゃないでしょうか。
外を歩いているといろんな情報が目から入ってきます。頭の中の全部 100%を使って「今日の夜何食べようかな」と考えているつもりでも、実際に使っているのは40%ぐらいなのかもしれません。残りの60%が目や耳から入る情報の処理に充てられているのかも。
眼鏡をはずすと、少なくとも目に入ってくる情報が格段に少なくなります。その分を自分の内面に向けられているんじゃないかなと思います。

この考えから学ぶことは、
自分と向き合いたいときは、外から入る情報の量を減らそう。外からの情報は思っている以上に強力で、ただいつもと同じ道を歩いているだけでもたくさんの情報処理パワーを必要とするみたいです。

使える意識は限られているのであれば、外から入る情報と中の情報、どちらにどのぐらい意識を使うか自分でその配分をコントロールしたいものです。

そしてもうひとつ。
眼鏡をはずすと、うまく説明できないんだけど、なんかもういろいろがどうでもよくなる。これが本当に気分がいい。
人の目とか世界の嫌な部分とか、気にならなくなる気がする。そういうのは実際に目に映って見えているものじゃないのに、本当に不思議です。
でも(私みたいな人は)そうやって、世界をこまごま一生懸命見なくていいんだと思う。ざっとさらっと気を抜いて見るぐらいで。疲れないように。

そういえば

川上未映子さんがなにかの本で「レーシックをするか迷う」とのお話、地震など緊急事態の時に視力が弱いのはおそらくかなりの痛手で目が良かったら便利なんだけど、迷う理由は「見えない状態と見える状態の両方を選べるのは、貴重だ」ということが書かれていた。
本当に素敵な考え方。わたしたちの鼻も耳も舌もなかなかその感度を調整することはできないけど、目の感度は調整できるように生まれてきてラッキー。

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