ミュージカル『ムーラン・ルージュ』雑感

これはわたしのための備忘録である。
元々ミュージカルの観劇後の感想をしたためたノート(物理)が存在するんだけどその日食べたごはんとか遠征先でのあれこれとかあまりにも私生活により過ぎていて人には見せられないので、少しだけよそゆきではあります。


🤔特に必須ではないが軽くわたしのこと
マメにミュージカルをみるようになったのはここ5年くらい。もともと小劇場が好き。好きなジャンルはバクステ、タップダンス、コメディ寄り。歌がうまいと許しがち。

8/18マチネ公演、
望海、甲斐、松村、上川、伊礼、中河内、加賀(敬称略)回での観劇。
映画は未視聴。某俳優さんのYouTubeチャンネルでちょっとだけみたけどあらすじはぜんぜん知らない。まあ好きだろたぶん!

めちゃくちゃ好きなやつだった。
2回いうね。
めちゃくちゃ好きなやつだった。

ショー・パブ『ムーラン・ルージュ』のトップダンサー、サティーンと、夢をみてパリにやってきた年若き芸術家のクリスチャンの恋物語、って言っちゃえばそれだけなんだけど、彼らにはそれぞれ地についた暮らしがあって人間関係があるのが丁寧に描写されるので、みんなのこと好きになっちゃうだろ〜!!??

オーナーのハロルドは、最初は拝金主義の男として出てきて、サティーンに『侯爵と寝てなんとしてでもパトロンになってもらってこい』と横暴なんだけど、サティーン含めたダンサーたちのことを家族のように思っていて彼らのために劇場を存続させようと頑張ってることがわかるし、
子どもの頃から身体を売らされていたサティーンの第二の父であり母でもいてくれて、だからこそ『寝てパトロンにしろ!』って指示をサティーンも受け入れてるんだなってわかる。
サティーンは、トゥールーズが言うとおり『賢くて、自分の力で地獄を抜け出した』女性で、「わたしは娼婦だから」という卑屈さとか、プライドを見せてこないところがすごく好きだった。
クリスチャンは芸術(歌)をやるためにパリに来た青年で、トップのショーダンサーであることと、無名の作曲家であることの間に『おなじ芸術家であること』以外のなんにもなくて、上下がないんだよ。
ここに地味に感動した。すごいことだよ。
トゥールーズというひともすごいひとで、サティーンとは幼馴染になるのかな? 昔から知っていて、彼女のことを好きで、でもそれを告げられなくて、告げられないことをクリスチャンに言ってしまう。だけどここに牽制の意図はなくて、『おれはダメだった、だけどおまえは行ってやれ!』って、なかなか言えることではないと思う。
終盤でサティーンが劇場のため、パトロンになったデュークの嫉妬の炎からクリスチャンを守るため、彼女にできる最善を尽くそうとするとき、味方になってくれるのもハロルドとトゥールーズ。ママとお兄ちゃん、みたいな感じかな。病魔におかされて余命わずかなサティーンにたいして、家族としては「生きてほしい」が正しいかもしれないけど、彼らは芸術のひとだから、『クリスチャンの歌を永遠のものにするの』と同じだけ、サティーンを永遠のものに、栄光の頂点にピン留めした、うつくしい蝶にするために動いてくれる。
デュークの思う『サティーンの永遠』と、それはどうしたって重ならない。うつくしい身体も歌も永続しない。舞台をおろして、何不自由ない暮らしをさせて、ただ人間の女として埋もれて朽ちてゆくことも、幸せでないとは言えないよ。言えないけど、ただ芸術家の、売れるかどうかもわからない、青くさくて、手垢のついていないクリスチャンがサティーンは好きだし、トゥールーズやハロルドも、彼を好きなんだと思う。
サティーンのやさしさって、彼女のかしこさだけじゃなくて、このふたりの影響がかなりある。トゥールーズが『おれは芸術家だ、誰にも傅かない』って言ってるの、彼らのなかに上下がないことの言語化なんだけど、サティーンの行動の言語化をトゥールーズがしてるのすごくない? 彼らのコミュニティではそれが当たり前ってこと。

サティーンが少女のようなひとであることと、ダンサー(娼婦)であることは矛盾しなくて、しかも彼女はどちらも欲しがっていて、叶えられるのはデュークでもクリスチャンでもなくて、彼女だけなんだよ。
愛のために生きるのか? へのアンサーは必ずしもイエスノーではなくて、『愛のために死なせて』も正しくない。だって誰かに許してもらわなくても、死なせて(殺して)もらわなくても、サティーンは愛のために生きられるし、死んだっていいんだもの。
そのうえで、『わたしの葬式ではおもいっきり下品な歌演ってね』『いっしょに彼を本物にしよう』って、ハロルドやトゥールーズに、甘えることができるんだ。彼らはこたえてくれるから。

サティーンはクリスチャンが「君のものだって自慢していいんだよ」と言った歌を、自慢するんじゃなくて、「みんなのもの」にする。彼をほんとうの芸術家にする。そのために病魔に冒された身体で無茶をして、結果死ぬことを予感しながら、『なんて素晴らしい、きみのいる世界』を魂が歌っている。
サティーンが死んだらクリスチャンには『きみのいない世界』になるかといえば、そうではない。サティーンを育てたひとたち、サティーンが作った場所、関係、芸術、それらに彼女は生きていて、遺された者たちの悲哀としては描かれない。
ほんのちょっとしたことなんだけど、こういう細かいところがすごいと思う。お涙頂戴の悲恋って気持ちいいじゃん。カタルシスがあるから。でもそういうふうには作られてない。ムーラン・ルージュにカタルシスがないとは言わないけど、感情を振り切らせることだけが、演劇の、芸術の、演出じゃないんだなと思わされる。

わたしはカテコ前にハロルドがレバーをがちゃん!っておろしてライトを消す演出と、そのあとのはちゃめちゃ大騒ぎ、サティーンのお願い通りの『下品なお葬式』をやってくれたんだな、と思ってめちゃくちゃ嬉しかったんだけど、
同行した友だちが「劇中劇が終わって、時間が巻き戻って、サティーンが死なない世界線の可能性が……」って言っていてこいつ天才か……?と思った。
絶頂で、舞台を愛したひとが板の上で死ぬ演出大好きすぎるから実は死んでなくて……の可能性をすっかり追い出してたわよ。
そうブロ銃のチーチの話をしています。
チーチは演者じゃないしすべてを見届けたわけじゃないけど彼がおもうおもしろい舞台、いい台本を書いて、理想のためにひとを殺してまで追い求めたひとが、上演中に射殺されるの、それはそれでハッピーエンドじゃん。
そして人生は続く、好きだし、『ゆきてかえりし物語』めちゃくちゃ好きなんだけど(これはわたしのヘキのサビなので何回でも言うが)、もうどこにも行ってほしくないんだよ…………これ以上どこかには……行かないでお願い……そのためならここで死ぬのも辞さないマジで どこにも行かないで(必死)

望海風斗さんは宝塚時代の映像をチラッとみて歌がめちゃくちゃうまいことは知ってたけど、実際に聞くとハンパなかった。ふるえた。
トップ様って宝塚の低く鳴らす発声に染まってる方が多くて、あれなくすのめちゃくちゃ大変だと思うんだけど、望海さん、高音の抜け、ハンパねえじゃん。なに? ちゃんと初撃から音が当たってるし喉あいてるじゃん。なに? 意味がわからん。
初めて井上芳雄さんをみたときくらいの感動だったと思う。
帝劇はいい劇場だから、声量がものすごくある!とかじゃなくても声は通るしよく聞こえるんだけど、音がズレないとかそれ以上に、このひと劇場の広さというか、2階3階の高さなんかをちゃんと分かっているんだな、と思う発声をされるので嬉しかった。
帝劇って広いんですよ!!あと壁が薄いんですよ!1階の見切れあたりにいると階段をだかだか降ってゆくキャストの足音とか聞こえるんすよ!だって楽屋が地下にあるから!!

次もこのひとが観たいなって思わされてしまった。スターだな。

書く気力が尽きたので気が向いたら追記する。

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