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"上位互換"の存在に頭を悩ませてしまうひと — 存在価値に対する悩みの克服方法

「自分より遥かに優秀だ」と思えるような人と一緒の環境にいて、終始心穏やかでいられる人はあまりいないのではないでしょうか?

私もそのうちの一人です。自己評価は絶対的ではなく普段接する日常世界において規定されるので、「それでもあなた十分頑張ってるじゃない」という親切な励ましも効かず、惨めな気分になるものです。

職業的に必要な最低限の誠実性(研究であれば学問的な誠実性など)は問われて然るべきかもしれませんが、ときおり友人などから間接的に耳にする、行き過ぎた自己否定を助長するようなコミュニティの風潮には強く違和感を覚えます。

他者に対する蔑視と自己に対する蔑視の連関

このnoteの中で、小野ほりでいさんは次のように指摘されています。また、自己蔑視と他者蔑視が滑らかに繋がっている一例として下記ツイートを引用されています(有料部分)。

私は価値のない人間である、なぜなら―――こういった考えは、自己蔑視的なものである以上、必ず他者に対する蔑視としても成り立ちます。

つまり、特定の価値基準 — 例えば「勉強ができる人は偉い」といった価値基準を内面化してしまうと、同一の価値基準に照らして自分と他者の両方を観察することになります。その結果、(自分より劣っていると見做した)他者を蔑視することにも、(自分より優れていると感じた相手と対照して)自分を蔑視することにもなります。これは、自己肯定感や他者に対する尊敬などのポジティブな感情に対しても同様のことがいえるでしょう。

私に効いた薬

ここからは、無意識的に内面化してしまった価値基準に自ら傷ついてしまうことも多かった私が、少しだけ楽になった方法について書き留めておきます。

文脈は少し異なりますが、障害と社会の関係について東京大学で研究されている熊谷晋一郎先生が「自立とは依存先を増やすこと」という表現をされています。

それまで私が依存できる先は親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、一人暮らしをしたことで、友達や社会など、依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。

これは自立という概念を、一見すると対照的な、依存という概念の外挿として見出したことに要点があると思います。

熊谷先生による示唆は、リスク管理の基本概念である分散投資(diversification)にも類似していますが、価値基準に対しても同様のことがいえると思います。つまり、存在価値の悩みが激しくてしんどいときには、意識的に価値基準をたくさんに分散するということです。一本のはっきりとした価値基準を引くのではなく、価値基準を分散して多面的に自分と他者を肯定することを試みます。

実際の行動に移していくときに始めやすいのは「他者を称賛する」という文脈においてだと思います。例えば今までは「〇〇さんは勉強ができて凄いね」という褒め方しかしてこなかったならば、「〇〇君は今日もオシャレだね」とか「〇〇さん笑顔が素敵だね」とか、あるいは「犬の散歩してて偉いね」とか、極論をいえばプロ奢ラレヤーさんの言うような「今日も生きてて偉い」でもいいと思います。

逆に、人を頭の良し悪し・仕事の出来栄え・見た目といった、適用範囲の広い特定の価値基準に偏って褒めることには、無意識的に「あまり全員がハッピーにはなれない」一意の価値基準を浸透させてしまう危険性が伴うことに注意します。それは結果的に自分に跳ね返ってくるときのリスクにもなります。

人は、自分が積極的に価値を感じていない側面において他人を褒めることを通常はしません。音楽に全く興味がない人が、誰かの演奏能力を直接的にベタ褒めすることは稀です。それは先ほど言及したとおり、褒めるとか蔑視するという態度の元になっている価値基準が、自分と他者の両方に対して同じように適用されるからだと考えています。逆にいえば、他者をある側面について積極的に褒めることで、同時にその側面において自分を肯定することに繋がります。

また、褒めることそのものには、さしてエネルギーを必要としません。しかし「褒められた側」には大きなエネルギーが供給されます。「あの人の代わりに私が働く」といった、システム内部のエネルギー収支がゼロになってしまうような行動と比べると遥かにお得です。そのようなプロセスが継続的であれば、コミュニティの内部が次第に活気付いていき、ヘルシーな集団的精神を養うことに繋がります。考え方の継続的な実践には、同じ考え方を共有する人との接触が不可欠ですから、人を巻き込んでいくことが必要です。

それでも、何か特定の価値基準を暴力的に行使する人 — 「〇〇できない奴はクズ」など — は稀に存在しますが、シンプルな解決策としては「あまり真に受けない」ことだと思います。価値基準を強く内面化してしまうことの非合理性を認識すれば、「真に受けない」ことが少しだけ簡単になります。しかし依然として、環境にしかれた価値基準の圧力に抗うには、それなりの芯が必要です。そのような芯を持つ人は、環境の価値基準に迎合して素早く結果を出せる人とは別の魅力を持っていると思います。

処方箋と副作用について

鋭い方は既にお気づきかもしれませんが、これまで述べてきた方法には「新たな蔑視の獲得」や「ルサンチマン — 価値基準の反転」という、欺瞞的ともいえる手段による精神的安定の確保に繋がる、怪しい香りがしてきます。

あらゆるものは、決して切り離すことのできない、いわば表裏一体といえるアップサイドとダウンサイド(良い面と悪い面)を持っています。今回紹介した考え方にも、当然ながら状況を悪化させるリスクがありますが、これをできるだけ小さくする方法を考察します。

ダウンサイドリスクの具体例を挙げます。「〇〇は確かに勉強ができるが、この人は空気が読めないから、その点において私は勝っている」という価値評価がエスカレートすると、「お勉強ができる人間は空気が読めなくて可哀想なやつだ」という価値基準の反転、いわばルサンチマンに発展します。これは欺瞞的であって、自分を十分に欺けるうちは良いのですが、自覚してしまうと惨めな自己肯定のあり方となります。

したがって、「あからさまな価値基準の反転」に発展しないよう、目指しているのはあくまで「価値基準の分散」であること、そして、「批判ではなく自己と他者の肯定に目を向ける」ことを意識的に注意する必要があります。前章で「褒めること」に注目したのはそのためです。当然、肯定には価値基準の設置が伴うので、肯定と批判は表裏一体で完全に切り離せるものではありませんが、価値の期待値をとにかく低めに設定することで肯定の割合を増やすことができます。プロ奢ラレヤーさんの「今日も生きてて偉い」という発言はその一例です。

また、価値を脅かされて精神的に不安定であることからルサンチマンが発生するのであれば、価値基準の分散によって、下がりきった自己肯定感を一先ずニュートラルに戻すことは、ルサンチマンの克服に却って効果的だと私は考えています。今回はあくまで精神的な管理と自己防衛を問題にしており、実際に価値基準に沿って能力を養うことはまた別の問題です。実際に努力を重ねていく必要があるにしても、存在価値の危機感から極めて物事に集中することが難しい場合は、まずは最低限の精神的安定を確保することが最優先です。

というのも、価値基準を反転することなく、客観的に自分より優れた相手を直視するには、どうしても自分のセーフスペース(安全領域)が必要になるというのが私の考えだからです。自分の存在価値を疑ってしまうような感傷的な状態では、冷静に相手から学びとることは難しいでしょう。価値基準の分散はあくまでリスク管理であり、破綻しないための防衛手段であり、決してリターンを最大化する手段ではありません。

意図的な自己肯定にはある程度の欺瞞や暗示が伴ってしまうというのが私の考えで、それを使わないとどうしても正気を保てない場面というのはいくつか存在します。自己肯定と自己批判のバランスは、精神的な健康を保てる範囲でパフォーマンスを最大化できるよう、自分でチューニングする必要があります。

「みんなが気持ちよく頑張れる」土壌をつくる

最後に理想的なシナリオを述べて終わりたいと思います。

ユニークネスを発揮しやすいものとは何でしょうか?「ナンバーワン」以外の人もなるべくハッピーになれる土壌としてどんなものがあり得るでしょうか。私は、価値基準が一次元ではなく、価値基準が非常に高次元な世界においてだと思います。一人一人の肯定に用いることができる軸がいくつもあるということです。一次元的な価値基準しかなければ、一位の人しか幸せになれませんが、高次元な世界においては序列を意識することが少なくなります。

存在価値に悩み、辛い思いをしている人たちには、精神衛生に良い土壌を提供する方が私は効果的だと思います。命を削るような環境は使い捨てにしかならず、人の危機感や焦燥感といったネガティブな感情のみに依存してしまう、持続可能性のない脆弱なシステムです(繰り返し言っていますが、要は自己肯定感と競争心のバランスのチューニングが重要であり、競争心を排斥せよといった極論の主張ではありません)。価値生成のシステムを自立させる要は、モチベーションの依存先を増やすことだと言うこともできます。

「みんなで楽をしよう」という話でもありません。どちらかというと「みんなが気持ちよく頑張れる」環境を作ることが大事ではないでしょうか。私は、根本的にずっと苦しんで萎縮しながら、結果を出し続けている人を知りません。価値判断を伴う表現で恐縮ですが語弊を恐れずにいえば、多くの人は楽しくて続けていることにこそ優秀さを発揮しています。私の周りで数学のできる人たちは、「自分より優秀な人がたくさんいて辛い」といいながらも、ずっと「数学が楽しい」といっています。根本的に存在価値が脅かされているなら、「自分より優秀な人がたくさんいて辛い」ということを公言することすら困難になります。

環境を形成する側の人間として行動に移せることとしては、このような価値基準の分散と多面的な肯定の雰囲気を環境の中に醸成していくことではないでしょうか。他者のプライドや存在価値を脅かさず、他者を巻き込んでポジティブなやる気を生み出していくことにこだわり、環境内のエネルギーを増幅していくことが、長期的にはパフォーマンスの最大化に有効だと考えます。

他者に対する態度と自分自身に対する態度は強く連関するという前提に改めて立てば、他者をケアすることが自身のケアにも繋がります。他者をみるときは自分自身をみるときのように自由意志と尊厳を持った存在であることを忘れず、自分自身をみるときは他者をみるときのようなケアの精神を忘れないことが、肝要ではないでしょうか。

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