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父の死

2020年1月24日 離婚後長年独り人暮らしをしていた親父が亡くなった。

私が旅行中の朝。
どうやら夜中に起きた心筋梗塞を翌朝ヘルパーの人が来るまで我慢したことで、悪化。帰らぬ人となった。
男独りの老後生活を行政の世話にまかせていた父の死際は
あまりにもスムーズな「処置」であり「処理」だった。

そこに、不思議と何の感情もわかなかった。
もしかしたら、身内の死に、こんなに無感情な私は、本当に恐ろしい生き物なのかもしれない、と思ったくらいだ。

夜爪を切ると親の死に目に逢えない、という言い伝えをふと思いながら、たまたまだが前の晩 爪を切っていた。

滅多にいかないお墓参りに、今年は正月早々に行ったりした、
だからだろうか?
ふとした事が父の死に繋がっていたように思えてしまう。

***

私は父の事をほとんど知らない。中学生の時から同じマンションの中で別々の部屋で過ごし、高校1年の頃離婚。別居。私は高校卒業後、朝日新聞の奨学生としてボロアパートに住み込みで働きながら予備校に通う事となった。
私が小中学生の頃の父は、まるで朝と昼が逆の生活で、不動産業を営んでいたことは知っているが、どんな仕事をしているのかは知らず、ただ学校に行く時間は寝ていて、私達が眠りについてから帰宅して、唯一日曜日の昼間、腰を踏んで欲しいと言われたり、夕方やっと起きてきて夕食を共にするような日々だった。

日曜日にかかってくる電話は、合図電話以外は父に取り次いではいけない。
私が物心ついた頃には夕食も友達が一緒でない時は、とにかく会話は少なく、緊張感のある夕餉だった。
夜中に帰る父は、下戸らしくよくトイレで吐いていてつらそうであった。
父はいつも「このままでは終わらない」という熱意を抱えているような人だった。だからまわりの同世代が上手くあがっていく事を露骨に悔しがった。

男の子のいじめで一時期登校拒否になった妹。妹と同じ小学校だった私に「いじめた奴を全員連れてこい」と、朝 校門前に一列にして殴って帰ったり、妹の結婚式の最後の言葉で、「本当はお前になんかやりたくなかった!」とマイクで叫んで新郎家族を苦笑させたり‥娘には人一倍気持ちが強かった気がする。
家を出てから、両親は2度めの離婚と2度めの再婚をし、私が30歳を超えたころにはもはや子供としてもふたりのことには興味はなくなっていた。
その後再び離婚をしたことも、父の行方が分からなくなったこともずいぶん経ってから知った。
私自身、もうしばらく家族と連絡を取るのをやめることにした。
*** 

私が家族と疎遠になって10年ほどたった頃、妹の旦那さんが若くして急死した。それをきっかけに、なんとなく私は再び家族とのやり取りを再開した。
***  

その後 一緒に旅行に行った事がある。

特によく覚えているのは、私が家族を招待する形で行った千葉の鴨川旅行だ。出発の直前まで、行くだの行かないだの、父、母がそれぞれ言い出し、私はすべてを中止したいと半ばヤケクソになっていたのだが、結局両親は来た。 

その時、珍しく父は喜びを露わにして、突然服を脱いで海に入って行って声を出していた。

部屋の片付けの時に出てきた、デイホームでつくったらしい七夕飾りの短冊にはこう書かれていた。
「熱い心を忘れませんように」。

父らしい言葉で、胸が少し熱くなった。

***

父はきっと人一倍愛情に飢えていたと思われる。父方の祖母が亡くなった時、普段見たことない涙声で「本当はこうやって抱きしめて欲しかった!」とおばあちゃんの骨壷を抱きしめていたのを思い出す。
いい歳をして、超マザコンだったのだ。
祖母はアル中の父の弟、を半ば囲うように暮らし、甘やかし続けた。もちろん父と叔父は何かにつけて喧嘩をした。父方の祖父 お爺ちゃんが亡くなった時はお葬式帰り、狭い我が家でいい歳して血だらけになりながら喧嘩をしていた。

母の影響はもの凄く強いものなのだと、自身を振り返りながら子供ながらに、もの凄く感じたものだ。


死に様こそが生き様。
父との同居はほぼ14歳まで。それも朝夜逆で父の顔を見るのは日曜日の夕食の時位で、その後は37年別々に暮らし、一緒に過ごした思い出が少ない。
それでも家族写真は数枚あった。

私は父に優しくなかったなぁ。


冷たくて、自分本位な息子だったなぁ。

ごめんなさい。
******
病院で その時が最後の別れとも思わず、帰ろうとするところを病院の方に呼び止められる私達。
ごめんね。そうか。これが最後か。

霊柩車ではなく、バンにストレッチャーで運ばれて行く。見送りは普段着の私達と看護婦さんひとり。

少なくとも血の繋がった家族の我々にありのままの死に様を見せてくれた。

ありがとう。

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