短歌を詠むこと覚え書き


最近Twitterにて短歌を詠んでいる。
わたしは
短歌の勉強などしたことがない。
唯一、穂村弘の「はじめての短歌」を詠んだことがあるくらいだが、
あれは短歌入門の本というよりは人生のある一面の価値に向けようというような本だと思うので…。

7年ほど前、自分の好きな二次創作BLの短歌アンソロジーを主催したことがある。
当時はそのCPが好きで好きでたまらず、世界にちらばるそのCPのかけらを拾い集めることに必死だった。
どうしてもそのCPの短歌が読みたかったし、詠みたかった。

当時、初めて短歌を詠んでみてから3日目の覚え書きがタンブラーに残っていたのでそのまま引用する。



まず、なりふり構わなければ意外と詠めるってこと…!死ぬほど恥ずかしいけど…やってみようってなった瞬間まで、絶対に私には無理だから誰か…っておもってた…引用じゃなく自分で短歌よめるのまじ憧れてたん…
良いもの(例えば同人誌のテーマにできるような)はできないけど、意外と詠めることがわかったし、これはすごい!とかこれは難しい!とか自分なりになんとなく思って、新しいことやってみるのは世界の見え方変わって楽しい!

客観、第三者として詠むのめっちゃ難しい(本当はそれがしたいのに全くできてない!)
いかに言葉を削ぎ落とすか、いかに意味を詰め込むか(だから、掛詞とか生まれたのか!!ってちょっと感動した、当たり前なんだけど…) 漫画の台詞なんかでもそうだけど、究極の、ってかんじ!そのなかで、どうにかして、わかるとわからないの間を狙いたい
あんまりわかっても(イメージを決めつけても)面白くないし、わからないと意味がない(萌えることが目的やから!)
頭ではよくわかんなくてもイメージが伝わるような、もしくは頭では想像しやすい情景だけどちょっと新鮮な言葉の使い方や響きや驚きがある、というようなのが好き
一番最初の言葉めっちゃだいじ、すっごく強いやつか、流れるように次につながっていくやつがいいな〜
単語もだけど、それ以上に助詞が面白い(省略することが結構有効だったり、逆に助詞を主役にしてみるのも面白い)
上の句から下の句へのイメージの跳躍、広がり、どこまで連れていけるかってことが面白い。すごく狭いものしかできてないので広く広くどこまでも広くしてみたらどうなる?ってわくわく
瞬間を切り取るにしても、台詞にしても、そこから、ぶわっていろんな想像が広がってほしいな!


これは2016年の五月の文章だそうである。

その同人誌を完成させてから、しばらく短歌を詠んでいなかったのだけれども、
たまに自分の中で大切な瞬間が訪れた時には詠んでいた。


2017年8月

40時間迷って迷ってノルレボをもらいチンケな現実はくる

2018年1月

いつまでも繋いでいてね細い指ガスライターに蓋するときも

2019年9月

待ちわびた日にも脱走するかなわず八百屋お七に遠き私


2021年11月

かわいそう、服に埋もれたクマさんをにこにこしながら撮影する君

恋愛の歌ばかりだ。もっと沢山詠んでいるが一首ずつにする。
大切な大切な一瞬間ばかりだ。


最近詠んで思ったことを書く。

言葉は何かを規定するために存在する。
言葉で囲ってしまうと意味は狭まる。
言葉で囲うことによって世界は創られる。

言葉の持つ意味とは別に、イメージは飛躍してゆける。
そのイメージは詠み手の意図をすりぬけて飛躍できる。
受け手がいままで送ってきた人生や触れてきた作品による。

「あの夏」と言われて戦争をイメージしたり、花火や恋をイメージしたり、ハワイに行ったときのことをイメージしたり。

作品をつくる人間はそのイメージに責任を持ちたい。
どんなイメージになったとしても受け止めたい。

言葉が増えるにつれ、イメージは狭まる。
それこそが詠み手の世界へ誘う行為であり、どう狭めるかが力量であるのだろう。

なんとなく「あの夏」から適当に作ってみた。

あの夏の帰り道ひとり「鱗姫」
いちごプリントの日傘をさして

ただたんに事実であるが事実をどう切り取るかがとても難しいな。

「あの夏の帰り道」で私は帰れぬ若い日の通学路をイメージした。他の人はなにを思うだろう?仄暗いような感じがする。あの夏、という言葉自体すこし仄暗い。帰り道、がまたほのぐらい。帰り道ならだいたい夕方であろうし。

ひとり、で、でさらに暗いセンチメンタルな雰囲気を足してみる。

「鱗姫」は嶽本野ばらの小説である。
それを読んだことのない人には意味のない言葉の羅列に近いであろう。

下の句は面白くないな良くないなとおもいつつ載せる。
単に事実の羅列だからだ。
鱗姫の冒頭は日傘の話である。
若い私がどれだけ文学から影響を受けていたか、どれだけ浮いていたか、思春期の孤独さ、そういうようなことは伝わるかもしれない。伝わると良いなと思っている。

でもわたしはこの「いちごプリントの」を捨ておけない。なぜなら私がとても大事にしていた日傘だったからだ。
BABY,THE STARS SHINE BRIGHTの小さな日傘ーー 
3000円の、とか、クリーム色の、とかでもいいのだろうが
いちごプリントの、が、私はいい。年相応の感じもするし。
昔は、かわいい日傘ってあまりなかった。おばさんたちが使うものという感じだったから。

私は事実しか書けないようである。
別に歌なんて嘘を書いてかまわないし空想を書いても構わないわけだけれど、
わたしには素敵な空想、というものができない。
現実の方が詩的だ。それは思想かもしれない。できるだけ空想を超えることを現実でしたいと言う。

現実感のある未来、というものならまだ書けるようだけれども、それは事実とほとんど変わらないのではないかな。

一瞬を切り取る装置として短歌の形を使うのは悪くないと思う。
しかしそれだけだと俳句のほうに軍配があがるだろう。
上の句と下の句の飛躍がやはり大切なのだろう。
言葉ですべてを説明できるなら歌にする必要はない。言葉で全てを説明してもなお、足りない、はばたくイメージが必要なのではないか。

いまは意味を詰め込んでなんぼだという気持ちになっている。
あふれる、にするか、こぼれる、にするか、したたる、にするか非常に考えた時があった。

現実では、あふれる、ではない(あふれるにはなりえない)のだけれど、歌の中のイメージを下の句につなげるために少しの嘘をつく。うそというか、現実の風景ではなく、心象風景に変えてみる。すると、あふれる、がしっくりきたのであふれる、にした。

ただ、意味の羅列になっても仕方がないと思う。
歌だから、読んだ時の語感のよさに、意味がついてくる感じ、その感覚は大事だと思う。

意味がよくわからなくても、語感の良さで美しいと思う歌もたくさんあるのであって、意味にこだわるのも良くない気がする。
意味は伝わるか伝わらないかよくわからないものであって、イメージは受け手のなかで飛躍する。
ならば詠み手が完全にコントロールできるのは、語感の良さだけである。
語感の良さ、喉越しのよさというような。

そして、そのなかに、違和感を仕込むこともきっと大事なのだろう。
流れるような歌の中に、アレっとつまずく言葉があるとそれに惹かれる。


思うところが増えれば今後ここに追加してゆく。

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