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無知と病人

(画像はこちらからhttps://iesukirisuto.org/2016/10/25/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E8%BB%BD%E6%B8%9B%E3%81%AB%E5%BD%B9%E7%AB%8B%E3%81%A4%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/)

『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。(ルカの福音書23章34節)』キリストが処刑される前の言葉だ。昨日、セミナーに向かう電車の中で、ある中年女性がよしりんに『電車にのっているのにマスク未装着の上に話をしている、おまえはキチガイか‼』と強烈な罵声をわたしと同行の秘書に浴びさせ、他の乗客にも『こいつはキチガイだ‼みろ、このキチガイを‼』と同意を求めて絶叫していた。わたしは、この女性をみて正に『ルカの福音書』を思い出した。これから、並木良和先生と、この生きにくい世相の中で、どのようにして生きていくのかをサイエンスとスピリチャルからセミナーで講演しようとしている矢先のことだった。私は常に、自分を恨むもの、嫌うもの、嫉妬するものを愛しなさい、と言っているが、正にこの狂ってしまった女性を心から可哀想と思ったのだ。もう、わたしの出来ることは彼女を愛するしかないと、私はそう思った。わたしが微笑んでみていると『おまえはこの状況で笑っている、キチガイだ‼』と更に絶叫した…。私に2分程度であろうか、彼女は車内で罵声を発声していた。神よ、彼女は悪魔によって完全に狂わされてしまったのだ。もう、壊れてしまったのだと、よしりんは思いながら、処刑されたキリストは、それでも諦めなかったと悟り、よしりんも諦めずに真実を伝えていこう、どんなことがあっても、怒りは封印しよう、どんな人も愛するのだ、と神と契約したのだった。実は、そんな思いで、昨日は講演させていただいたのです。皆さん、たくさんの愛をありがとう‼  (吉野敏明先生 8/2のFBより)

いやあ、すごいね。マスクって、やっぱり病人がつけるものだと思った。「マスクをつけろ!」というのは、「私は病人だ、おまえも病人になれ!」って叫んでいるように感じる。

あの検査はおかしい、マスクに効果はない、枠は危険だよ、と人々に伝える段階はもう終わったのかもしれない。

私は生き延びたいとは思っていない。ただ、医療やあちら側や、世の中を覆っている妄想に屈したくない。だから、この狂った世界から、逃げて生き延びることが最善だと思っていた。できるだけ多くの人と。

その段階も過ぎたのかもしれない。

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ワクチンを打てば終わると言うけれど、いろいろ理由をつけて、毎年受けなければいけなくなり、そのうち半年だとか、毎月になっても受け続けるのが正義になるのだろうか。最初は変異株だとか一応の理由があっても、そのうち、打つことそのものが目的になるのは、目に見えている。子宮頸がん枠も、25歳?になったらまた打てという話があった。じゃあ、どうして中学生で打つの?男子にも打つという話もあった。男子って子宮を持っていたっけ?こういう矛盾に疑問を持つことすら、陰謀論になるのだろう。周りがバタバタ死んで、障害者だらけになっても、それは運が悪かった、かわいそうに、でも私は“まだ“大丈夫で良かったと。

病院に行って治らなくても、人々は病院に行き続けるのだから、そうなっても不思議じゃない。

これまでの私の人生において人間関係が壊れてしまったのは、病気をめぐることばかりだ。無知だったから、子どもを医療被害に遭わせてしまった。中には死なせてしまった人もいる中で、今、ウチの子は元気だ。紙一重だった。だから、「無知は罪である」は強烈に私の心に刻み込まれている。私と同じ過ちをしてほしくなくて、声をかけてきた。でも、飛んでくるのは罵声であったり、私を貶めるような言葉。

体調不良という目に見える状態の前から、すでにその人たちは病気だったのではないか?

最近、そう感じている。

ものごとの本当の姿を理解できないから、病気になる。

私には不調はない。不調の定義が難しいけれど、少なくとも、なんとかしなければいけないという不調はない。

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無題

思い出すのが『維摩経(ゆいまぎょう)』。聖徳太子が著した経典注釈書、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』で取り上げられた経典の一つとして有名だ。在家信者の維摩が主役で、お経の多くが「あるとき私は、こんなふうにお釈迦様から聞きました(如是我聞)、・・・」から始まる中で、異質なお経だ。維摩は家族や仕事を持ちながら、深く仏道を極めて、すでに悟りを得ている。

その維摩が病気になった。そこで、お釈迦さまが弟子たちに、維摩のところにお見舞いに行くように言うのだが、それぞれが、維摩にやり込められた経験があるので、行きたがらない。十大弟子に断られたので、お釈迦さまは菩薩たちに頼むが、これも全て断られた。結局、智慧の象徴として知られる文殊菩薩が引き受けた。文殊菩薩が行くとなれば、維摩とどんなやりとりになるのかと思い、弟子や菩薩、神々もいっしょについて行くことになった。

一行が維摩の家に着き、文殊菩薩が、病人の維摩に病気のことを尋ねた。維摩は次のように答えた。「ものごとの本当の姿を理解できないということ(痴)と、自分でもコントロールできないほど次から次へと食る心(有愛)が原因で、私は病気になってしまいました。これは誰もが罹る病いです」

維摩自身はすでに仏道を極めていた人物だから、「痴」「有愛」が原因で病気になるはずがない。その理由については、次のように語る。

「菩薩(悟りを求めて仏道を歩むすべての者)は、すべての生きとし生けるものを救うためにこの世俗社会に姿を現したものです。・・・もしすべての人々が病気から逃れることができれば、菩薩も病気になることはありません」

維摩は世俗の中で生きるうちに、「痴」「有愛」で病んでいる人がたくさんいることを知った。そういう人たちに寄り添っているうちに、自分も病に罹ってしまった。つまり、慈悲が維摩の病いの原因だった。

参考文献:釈 徹宗『維摩経』 2017年6月 (100分 de 名著) ムック

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人々が「自分が何をしているのか分からないのです」と言って、十字架にかかって死んでいったイエスと、人々の痴(ものごとの本当の姿を理解できないということ)」や「有愛」で病気になった維摩。

新約聖書が1世紀から2世紀にかけて成立したと言われ、『維摩経』は大乗仏教初期の経典として2世紀ごろに成立したと考えられている。

洋の東西を問わず(いや、どちらもアジアか?)、人々の「知の疎さ」が猛毒であることは、2000年前もわかっていた。その毒は、愚かな人々を心から愛し、慈悲を起こす人を、殺し、病気にもする。2000年前からわかっていたのに、いまだに、撲滅できないでいる。というか、撲滅しようとすれば利権と衝突するから、人類の不治の病はひどくなる一方なのだろう。

凡人の私に何ができるのだろう。

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若者が職場でもらってくるらしく、アトピー(?)がひどくなった。その影響があるのか、滅多に皮膚症状が出ない私にも、赤いものがちょっとできている。幸い、色々とやっているから、若者のアトピーはずいぶんとマシになった。私は特に何もしていない。その皮膚を見ながら、これも素敵なことかもしれないと思った。

子どもは、お味噌汁や納豆を食べるといった食事面だけでなく、ビタミンD、5ALAなどのサプリも試している。でも、皮膚症状に一番効果があるのは、私が作る自家製キニーネだと言っている。

無題2

私の皮膚にできた赤いものは、「人々の知の疎さ」が飛んできて、できた炎症。外にあまり出ない私も「人々の知の疎さ」と繋がっているということだ。

植民地支配も水俣病も福島も、人々を分断して統治されてきた。道一本隔てて、補償金がもらえる地域とそうでない地域に分断する。今回も全く同じだ。あちこちに分断ができている。

『維摩経』の重要なテーマは、「二項対立構造からの脱却」だ。これが一つの処方箋だろう。

「人々の知の疎さ」をこの身に受け、これと共存せよということかもしれない。それが、「医療やあちら側や、世の中を覆っている妄想に屈したくない」という私の決意にも、一番沿うやりかたかもしれない。逃げて生き延びることよりも。

ポツポツと私の皮膚にできた炎症は、やっぱり素敵なものかもしれない。


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