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世界的ロングセラー

最近は読みたいと思う本が少ない。

以前は、「趣味は立ち読み!」というくらい、書店は何時間でも過ごせる素敵な空間だった。でも、今は、書店に行ったら、あの思想団体のドンの本、おひとりさまシリーズが目立つところにあるし、withだとかafterだとか、この茶番を既成事実としている本がずらりと並んでいる。その壮観な並びを見ると力が抜ける。物事の見方が面白くて、尊敬していた”知識人”が何人かいた。賢い人だと思うのに、私でも見抜けるようなこの茶番を茶番だと見抜けないのか、あちら側なのか、そういう人たちがwithだとかafterだとかを書いている。その一方で、液体や顔面オムツの危険性について書かれている本も並んでいる。そういった本の著者は、ネットですでに大いに語ってくださっているし、講演会にも行った。だから、もういいかなと思う。小説は、もともと、何か理由がなければ読まない。だから読みたいと思う本がほとんどない。岡本よりたかさんの本を別にすれば。


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この本も時間をかけて、ちゃんと調べて書いた本だと思うが、途中で飽きてしまった。社会的なことについて書かれているものは、革新系はうんざりだし、保守系もしんどい。


今回の感染症騒ぎがきっかけで、色々と不思議に思っていたこと(辻褄が合わなかったこと)が、ああ、そういうことでしたかと、次々に分かった。半信半疑だったことは、やっぱりそうでしたかと確信に変わった。また、プロパガンダがどうやって行われるのかを、まざまざと観察できた。

それらをさらに一本に繋げたのが聖書だった。怖いのだけれど面白すぎる。

そうやって、世の中の仕組みの大枠のようなものが見えてきたから、枝葉末節の話はもういいかなと思ってしまうようだ。歳を取ったのだろうな。


聖書と言えば、キリスト教の聖典。申し訳ないけれど、キリスト教とは相性が悪い。

子どもを薬害に遭わせてしまったあの病院の壁に聖句が貼ってあった。おかしいと思いながら通院を続けたのは、ずっと世話になっていた小児科医の助言だった。その小児科医はクリスチャン。クリスチャンの友人が何人かいたけれど、いずれもケンカ別れした。そして、歴史的に見て、侵略とキリスト教はセットであることは、多くの人が知っていることだろう。

申し訳ないけれど、嫌いになる要因はいくつもあるが、好きになる要因が見当たらない。


聖書は世界的なロングセラーだと言われる。そりゃあ、世界の宗教人口の1/3がクリスチャンだから、そんなものだろう、だけど私には関係ない本。そう思っていた。

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(http://sekaigo.web.fc2.com/sekai_data/2009_jinko.htmlより)


が、つい3ヶ月ほど前、聖書についてちゃんと知りたいと思った。伏線は15年前からあったのだけれど、”キリスト教”と相性が悪いのと、聖書を読んでもよく分からないし、解説本を読んでもつまらないし、教会に行けば当たり前だけれど「祈りましょう」となる。気にはしていたけれど、この15年、何一つ理解は進まなかった。振りかえってみれば、私がちゃんと聖書の「ことば」を受け取れる準備ができるまでに、15年の歳月が必要だったように思う。


ガンディーは、イエス・キリストは好きだけれど、クリスチャンは嫌いだと言ったそうだ。イエスは私にとって好きだとか嫌いだという次元ではないが、クリスチャンのお仲間には、今も入りたくない。

でも、聖書は面白い

たった3ヶ月ほどで、まだまだ知らないことのほうが圧倒的に多いのだけれど、歴史、今のご時世、そして私の人生、それらを言い当てている。そして何よりも壮大な世界が広がっている。

そりゃ、これに対抗できる本を書ける人なんているワケがない。


例えば、言語学をかじった人間として、この有名な部分がスゴイ!と思う。

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネによる福音書 1章より)

有名なところだから、以前も聞いたことがあったけれど、「ふう~ん」だった。今は、ビンビン来る(笑)

この「言(ことば)」とは「ロゴス」のことだ。私は、ギリシャ語やアラム語を知らないが、私たちが思い浮かべる日本語の「ことば」とはニュアンスが違うと思う。言語が違えば、意味のずれがある。特に、抽象的な単語だから。でも、「ことば」が神聖なもので、「ことば」によって万物が成り立っているというのは、日本語の「ことば」でも理解ができる。

例えば、「ゆるキャラ」。みうらじゅん氏が考案した「ことば」だ。このことばができたからこそ、日本全国に「ゆるキャラ」が登場した。


あの感染症だって、名前をつけたから、つまり、「ことば」を当てはめたから、この茶番が起こった。これは、製薬会社の常套手段だ。例えば「うつ病」日本には憂鬱を尊ぶ文化があって、医者の所に行って、薬をもらうような”病気”ではなかった。

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「ゆるキャラ」が神聖かどうかは別として、少なくとも、この騒ぎの「ことば」は神聖なものではなく、邪悪な動機で作られた。

精度の低いあの検査での陽性者感染者として、その数を毎日メディアで流した。私の住んでいるところでは、毎日夕方になると町内放送までしていた。正直、ここまでやるの?と思った。市内で”感染者”が1人だとか3人だとかでも「感染拡大に伴い、緊急事態宣言が発令されています・・・」とかなんとか。パターン変えればいいのにね。入力は人間だと思うけれど。「感染拡大」も、「緊急事態宣言」も定義が変わってしまったのだろう。

邪悪な動機で使われる「ことば」は、定義をすり替えるということが、今回の騒ぎでよく分かった。詐欺だよね、人々が思う定義を知っていて、意味をずらして使い、人々を誘導する。

最近は、「パンデミック」という言葉はあまりメディアで登場しないが、人々の恐怖の根底にはこの言葉があると思う。

WHOは長年にわたってパンデミックを「莫大な数の死亡と病気を引き起こす」アウトブレイク(突発事)と定義してきた。しかしWHOは2009年5月のはじめに、このパンデミックの定義から「病気の重篤度」を削除した。〔「WHOのパンデミック政策は製薬企業の影響下にある (BMJ誌がWHOの利益相反問題を検証)」より〕

重篤でなくてもパンデミックと言う。薬の特許切れの2010年問題を見据えて変更されたのだろう。


10年も前の話なのに、知らないほうが悪いのか?だまされるほうが悪いのか?


トランプさんが、この騒動は人間が引き起こしているものじゃない、と言ったそうだけれど、そうかもと思えてしまう。

他人様は知らないが、相手がサタンであろうと、私については、だまされるほうが悪いと思っている。だまされた結果として、自分を傷つけたのではなく、子どもを傷つけたから。そういう苦い経験がある。

同じような過ちを、他人にもしてほしくないと思って伝えようとするのだけれど、”恐怖”という暗闇にいる人たちには、合理的な話は通じない。そうなると、マイノリティの1%側が、光だということになる。私が光かどうかは別として、「ことば」が通じないことが分かっているから、沈黙するか、暗闇で流通している「ことば」で話す。私はバイリンガル?(笑)


その他にも、ひゃっほー!!と言う話が聖書には盛りだくさん。おかげで、家にある本をずいぶんと処分することができた。


姥捨て山に捨てられるときにはは、聖書を持参しようと思う。死ぬまで、いや死んでも退屈しないだろうから。

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