見出し画像

日本語

中年になって、近所のパッとしない大学に社会人入学をした。研究というにはおこがましいけれど、日本語の外来語がテーマだった。語学音痴なので他の言語とちゃんとした比較はできていないのだけれど、日本語は、よくも悪くも、日本語の外にあるもの(主に外国語)を吸収しやすい言語だと思った。

例えば、動詞であれば、「読書する」、「コミットする」のように、「○○する」というサ変動詞をくっつければ、あっという間に日本語にできる。漢語(≓中国語)である「読書」には「読む」という動詞が含まれ、”commit”は原語が動詞である。それでも「○○する」と言う。「頭痛が痛い」と言うのと似ているかもしれない。

そうやって、取り込んだ外来語は、訛ることもあるし、原語の意味からすれば偏った意味で定着することもあるし、独自の意味をもたせたりと、アレンジが加わる。例えば、ミシン。英語では"sewing machine"(=縫う機械)だけれども、"sewing"が落っこちて、"machine"がミシンと訛って定着している。

言語は、文化そのものだ。

文化といえば、絵画や建築、音楽、舞踊、祭り、茶道などを思い浮かべるかもしれないが、根幹は言語だ。だから、日本語の特徴が、その言語を使う日本人の気質に繋がっている。

「なんでもおおらかに採り入れて、独自のアレンジをする。」

これが、日本文化の本質だと思う。今、「和風」と思われているものは、室町時代にその土台ができたと言われている。海外の人が、その頃の日本の美術品を見ようと思って美術館や博物館に行くと、なんだ中国のものじゃないかと思うそうだ。「日本文化」の本質は、中国から来たものであっても、何を選んで、その芸術性をどう解釈したかというところにある。


*****

画像1

(https://www.wikiwand.com/zh-mo/%E9%9B%B2%E5%B2%A1%E7%9F%B3%E7%AA%9Fより)

昔、中国に行って、雲岡石窟を見た。大きさと、日本の仏像と全く違う風貌にびっくりしたのだけれど、無数の穴があいていたことが強く印象に残っている。銃弾のあとだ。文革のときに破壊しようとしたけれど、大きすぎてできなかったのだと。

○産主義は、その土地の文化や歴史に価値を置かない。”平等”の名のもとで破壊し、画一化していく。今、世界の動きというか、エリートたちは、統一政府を作るために○産化を進めている。そのうち人々の身体にチップを埋め込んで、完全支配する方向にある。

○産主義に対抗する考え方はナショナリズム。○産化には絶対にいやだから、ナショナリズム派の話を聞くことが増えた。でも、○産主義の正体を知らなかったとは言え、どちらかと言えばリベラルだった私は、ナショナリズムにどっぷりとはまることには、やはり抵抗がある。

「ナショナリズム、日本の場合は3つ柱があると思うんです。
日本語ですね日本語。さらに日本国民の国であること。そして皇統
考えてみたら、この3つすべてが攻撃を受けているんですね。」https://youtu.be/IGszgfEQixAより

私は、天皇家については、いいとも悪いとも思っていないけれど、ナショナリズムの話になると、天皇家の話が必ずついてくる。大衆をまとめる上で旗印は必要だと思うから、そういう意味でいらっしゃるほうがいいと思う。でも、あちら側の資金をバックにした明治維新のときに、担ぎ出されたことを考えれば、手放しで天皇陛下万歳でいいのかとも思っている。

次々と新しいカタカナ用語を繰り出して、日本語を冒涜するような緑のおばさんのような政治家と同じ系統なのか、そうではないのか、様々な話を聞くけれど、本当のところはどうなのかは分からない。

それもあって、私が保守であるとすれば、日本語と日本語が通じる文化圏を守りたいということだ。

*****

今はそういう分類をあまりしないのかもしれないが、日本語は「膠着語」と言われる。日本語にないものでも「○○する」というサ変動詞をくっつけて日本語に取り込むということを、最初のところで挙げたけれど、日本語の性質をよく表わしていると思う。「膠(にかわ)」は動物の骨,皮,腱 (けん) などから抽出したゼラチンを主成分とする物質で、昔の接着剤(栄養価が高い!)。「膠着」は、粘りつくこと。しっかりくっついて離れないこと。

ちなみに、日本語以外の「膠着語」は、モンゴル語、韓国語、トルコ語など。中国語は語形変化をしない「孤立語」、語そのものが語形変化する「屈折語」は、インド‐ヨーロッパ語族やセム語族の諸言語。


本来の日本人は「受け入れる民族」です。
優れた外国製品を真似て、よりよい家電や車などの製品を作り上げるのはお家芸ですし、外国のお料理をアレンジして日本独自のお料理にしているものは沢山あります。
昔は、外国人が突然家にやって来たとしても、お客様としておもてなしをするような国民性だったそうです。
しかし、フランシスコ・ザビエル(キリスト教(イエズス会))が来てから状況が変わりました。
そんな国民性の民族が世界に出ては非常にまずいということで、神や愛や平和などの美しいことを説きながら、裏では残虐な行為や日本人の奴隷化、人身売買を進めました。
秀吉がそれに気づき、キリスト教の排除と鎖国をして平和な時代が訪れました。(「 食べ物はエネルギーや愛 」なんて聞くと、 「 宗教か何かに洗脳されてる 」と思ってしまう方へ。)

かつては、すぐれたリーダーがいたから、軍事力があったから、豊だったから、侵略の魔の手から逃げ延びた。今は、どうなのか。

・・・ボロボロだよね。

「液体を打つな!」と言い続けることは大事だと思うけれど、もう、次の段階に入っていると思う。


膠着語である日本語を操る民族が、「打つ派」と「打たない派」で分断するのは、らしくないと思う。

負け戦(いくさ)が濃厚で、逃げ回るしかないとは思うのだけれど、あちこちベタベタ糊(膠)でくっつけ回ったら、流れが変わるのではないかと思う。そんなことをしたら、あちらさんも想定外で、ずっこけるんじゃないかと思ったりする。そう思うとね、先生の意に反することをして、逃げながらあっかんべえをするようで、ワクワクするのよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?