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沈黙
昨日、最寄りの小さな駅の近くに、プレハブ建ての接種会場ができているのを見た。見ると、それなりに人がいて、若い人もわりといた。少し前までは、液体注入については、色々と思うことがあったのだけれど、我が子が打ち、このことで我が子と決裂してから数ヶ月、もう心が動くことがなくなった。
我が子も含め、見ている世界が違う、いや、”見せられている世界”と”見ている世界”の違いかもしれない。
世界が違うから言語が通じない。
同じ日本語を使っていても通じない。だから、言語による働きかけは、意味のないことだと思う。できることがあるとすれば、生き方で示すか、祈ることだろう。
振りかえってみれば、到底、受け入れられないことを、受け入れざるを得なくて、沈黙してきたことがいくつもあった。例えば、
・子どもより世間体が大事
・子どもより仕事優先
・自分の処方する薬の作用を知らない医者(よくあることらしい)
・チェルノブイリの原発事故であれだけ騒いでいたのに、
自国の放射能は風評被害だという
・治験中で、安全性に問題がある液体を、体内に注入する人のほうがフツー
4番目に挙げた原発事故以外は、私は多くの涙を流した後、”説得されて”表面上は受け入れてきた。原発事故については、目に見える直接的な被害がなくて、「多くの涙を流す」ことは無かったものの沈黙したという結果は同じである。納得していないが、もう口にしないということだ。私がマイノリティであることを理解したからだ。
どんな世界であってもそうだが、マジョリティがマイノリティの言語を理解することはなく、意思疎通をはかろうと思えば、マイノリティ側がマジョリティ側の言語を理解するしかない。そう、一方通行だ。
妊娠中は、風邪薬でも、いや、お酒もカフェインも「大丈夫だろうか?」と心配して、よっぽどのことがなければ飲まないのが、私が妊婦のころの常識だった。少なくとも、私はそう思っている。それも通じなくなっているのかもしれない。
妊婦さんでも大丈夫、だとか、打たなければ帝王切開してもらえないとかで、安全性が不明な治験中の液体を妊婦さんも打っているらしい。それが、新しい常識なのだろう。
しかし現在、胎児奇形の報告が相次いていることを考えると、結局のところ、死産として流れるか、奇形児として出生までこぎつけるか、の違いに過ぎないように思われる。(「ワクチンと胎児奇形」より)
口をつぐむしかないよね。当然の結果だと思う。でも、私は医者じゃないし。まあ、医師であってもレッテルを貼られてしまえば、門前払いにする人もいるだろうから。死産だったり奇形の子が生まれてきたら、天を仰いで「運が悪かった」と思うのだろうか。それとも、「子どもを授かろうとしたことが、分不相応だった」と思うのだろうか。
家庭科の免許を取るときに、先生がこう言っていた。「子どもを産み育てることは、贅沢なことなんです。まずは働くことです」。それをおかしいと言ったのは、その場では私一人だった。マイノリティである私が、つるし上げられたのは言うまでもない。思想としても、常識として学校でそう教えられているということだ。
マジョリティは列車に詰め込まれて、どこに連れて行かれるのだろうか。
フランクルの『夜と霧』を思い出す。
マイノリティはマイノリティで迫害が待っている。歴史上、そういう話はいくらでもある。裏返せば、不服従を貫いた先人もたくさんいたということだ。
どちらに転んでも、苦難が待っているという大変な時代。
構造がなんとなく見えてしまった私は、今さらマジョリティにはなれない。マイノリティとして沈黙し、不服従を貫く以外に道がないのよね~
(タイトル画像:https://www.hatodokei-k.com/yorutokiri-life-mean/)
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