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変化

自治体のやっている○○教室というものに参加したら、来ている生徒さんが皆師範だった、という恐ろしいところに通っていたことがある。私は初心者。先生も”生徒さん”も皆さん、年齢を聞いたらびっくりするくらいお若い。

”生徒さん”たちもよくしてくれたけれど、先生が面白かった。”生徒さん”の作品を、いろいろな比喩を使って、ここがいい、ここを直したらいいという講評をする。その比喩というのが、思い切り世俗的なネタで、そこから大いに脱線してしまうこともよくあった。「ちょう先生の動画」でしゃべっている「よしりん」と似たような感じかな。下ネタとプロレスの話はないけれど。

この先生がおっしゃった言葉で、しびれたのが、

「私は今はそう思う。でも明日は別のことを言うかもしれない。学んでいれば必ず変化する

生徒さんたちは、練習を要求されて、サボるとすぐバレる。おまけに先生の言うことがコロコロ変わると、たまったものじゃない。ある生徒さんは「(先生は)気まぐれだからな」とぼやいていた。

先生のこの言葉の裏には、誰よりも練習してきたし、しているという自負があるのだと思う。「先生」というのは、先に立つ人なんだから、生徒さんから集めたお金は、先生が勉強するためだ、ということもおっしゃっていた。

私も、コロコロ意見が変わる。できるだけ変えないように頑張るのだけれど、やっぱり納得できなくて、意見を変えてしまう。夫には、「前はああ言っていたのに!」とよくからかわれたし、なかなか信用されなかった。私も勉強した結果、意見が変わっているのだ。でも、私が勉強するものは、役に立たないものか、うさん臭いものだと思われていて、危ない宗教か何かだと疑われる。例えば、医療のウソだとか、食が大事だとか、利権構造だとか。最近になって、ようやく、こいつの言うこと、当たっているんじゃね?と思い始めたようだ。苦節10年?

それはさておき、幸か不幸か、私には守らなければならないものがない。ついこの間までは、生んだ子たち(の健康)は守りたかった。それさえも「個人の意見は尊重されるべき!」という、もっともらしい言葉の前に、泣く泣くあきらめた。

もともと専業主婦が長いから、守るべき肩書きもキャリアもない。守るべき故郷もない。色々と頑張ったり、お金をかけたこともあったけれど、「だから?」と思っている。

時間もお金もかけたことで、手痛い失敗をした。子どもを心療内科に連れて行ったのは、20年も心理学にはまっていたから。はまっていなければ、子どもを傷つけることもなかった。だから、あれほどあった心理学関係の本は、今は1冊もない。

「変化する」というのは、裏返せば「捨てる」ということだ。


というわけで、

他人様が大事にしている”こだわり”というのが、すぐに見えるほうだと思う。マイノリティとしての生活の知恵かもしれない。そこを尊重して接すれば、決して波風が立つことはない。

その”こだわり”がいかに大切かを説かれても、よく分からない。というか、昔は分かったような気がするが、今は分からない。


だから、今からでも自分の考えが間違っていたと思われたら私と同じように主張を覆してもいいんですよ。
気が付くのは、人それぞれというのがあるのですから、その後先なんて関係ありません。                         (「自分の間違いを認めることの大切さ」より)


「間違い」の反対は「正しい」。私は、故郷もなく、社会的地位の低いマイノリティ。マジョリティ側の「間違い」にも「正しい」にも口出しをしようとは思わないし、できない。


ただ、

「変化する」ことを認めてしまうほうが、生きるのがラクだし、面白い。


私の周囲にいる人たちに伝わればいいなって思う。


(タイトル画像:https://time-sharing.jp/sharing/8486-2より)

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