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商売人としての買い手

先日、講演会に行った。隣り合わせたご夫婦と少しお話をした。夫婦で価値観が合うからこそ、この講演に来られたと。そういうご夫婦はこれで二組目。どちらも自営業だ。

この会の主催者が、この騒ぎで家族がバラバラになっている、それはゆゆしきことで、なんとかしなければいけないとおっしゃっていた。わが家のことを言われているようだ。この騒ぎの前から、住んでいるところはバラバラだったけれども、精神的つながりは多少なりともあったと思う。でも崩壊してしまったかもしれない。

犯人は私だ。

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私がチョイ仕事をしてきた場所は、公務員のいる場所。“常識”を重んじるところだ。「常識的に考えて、こうするべきでしょ」「常識的に考えて、それはだめでしょ?」と“常識”が使われる。でも、私にはよく分からなかった。

「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

そう言われるたびに、太宰治『人間失格』の「世間」について書いた部分を思い出していた。「常識」と「世間」は同じ意味ではないけれど、「世間というのは、君じゃないか」は、そのまま「常識」に置き換えられる。

仕事は非正規だったから、もちろん、常識人の正規雇用の公務員が言うことに、「はい」と言って、その“常識”とやらに外れないようにしてきたけれど、前に言っていたことと“常識”が変わることもあって、私はつくづく“常識”が分からない人間だ思った。

家族や身内は公務員や勤め人ばかり。そういった共通する“常識”があるらしく、そこから外れると思われることは、できるだけ言わないようにしていた。

でも、命に関わることは言わなきゃと思った。言ったら、人間関係が壊れ、家族も崩壊した。

覚悟はしていた。言わないほうが辛いと判断したから。

*****

考えてみれば、打たないと宣言している身内三人は、「商売人」系かもしれない。姑は胸を張って「商売人だ」と言う。娘は販売業。私は商売人ではないけれど、“常識”をそういうものだと受け入れられなくて苦労したのは、さっき言ったとおり。

「売る」という行為は、「だます」とまでは言わないけれど、お客を上手に乗せて売るということだ。当然、自分が買い手(無料であっても)になるときは、売り手の意図を考える。姑は、周囲が反対しようが、その「商売人思考」で良い判断をしてきたという自負がある。だから、今回も「打たない」と決め、私が「打たないほうがいい」と言ったら、大いばりでそう宣言した。

娘は駆け出しではあるが、会員を獲得せよと会社に言われて、自分としては特にオススメでもなくても、勧めて獲得するということをやっている。私は、この騒ぎの前も、メディアで風疹が流行っていると言ったら、枠の在庫セールのことだよ、と話すと、すっと分かるようだ。

そういう目で見れば、今の騒ぎが、恐ろしく大々的な世界的キャンペーンだと気づく。これを“常識組”に伝えるのは難しい。プライドがあるし、「社会的良心」のようなものもある。だから反枠は社会的悪ということになる。

いやいや、そうじゃなくて・・・と、下手(したて)に出て、小出しにしても「しつこい」としか思わない。非常識のインボー論につきあってやったけれど、我慢の限界を超えたと言って、爆発する。

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ガンディーは植民地状態のインドをなんとかしようと立ち上がった。ガンディーは、ヴァイシャ(商人)のカーストに属する家に生まれていることもあり、商人の家系であることに誇りを持っていたし、決して悪く言わなかったというのを、どこかで読んだことがある。

イスラームの創始者、ムハンマドも優秀な商人だ。商売は神を喜ばす行為だとか。

ふと、両者が商売を重んじていることに気づいた。人々に商売人としての買い手、つまり「売り手の都合を想像できる賢い買い手となりなさい、その上でお互いの損得勘定を考えて取引しなさい」と説いているのではないかと思った。

「お客様は神様」にあぐらをかいていたら、だまされやすいし、だまされていることにも気づかないのかもしれない。我が子たちを見ていても思うのだけれど、選ぶことには長けているけれど、売り手の都合を想像する「賢い買い手」とは言えない人が多いような気がする。

・・・と分析したところで、働きかけて既にあちこちで玉砕してしまった。

背中で語るしかないのだろうね。背中を見てもらうことがなくてもね。賢い選択をしてほしいと、ただただ祈るだけ。

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