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破天荒な父と保守的な母から生まれた2人の兄を持つ末っ子。

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最近の記事

麒麟がくる 最終話

インスタで、ここまで毎回のようにドラマの感想を自分なりの言葉で 書いてきました。 でも、今回はうまく書けそうにありません。 どんな言葉を使っても足りない。 この感情を的確に表現できる言葉が たぶん日本語にはないのかもしれません。 「是非もなし」 このひとことをすごくすごく考えました。 「そうか十兵衛か。  他のヤツなら許せんが、光秀であれば。  是非もなし。」 表情から伝わったのは、 悲しみ、驚き、後悔、そしてある種の安堵。 そんな想いか

    • 裏切ったじゃないよね、何か事情があったんだよね。

      麒麟がくるはいよいよ最終回。 おそらく1時間ではここまで描く尺ないであろう、 本能寺の変の事後の話。 日本史上最大の下克上、本能寺の変から、三日天下と呼ばれるきっかけとなった山崎の戦い。 羽柴秀吉が信長の弔い合戦として光秀を討伐した合戦です。 光秀の敗因はざっくり言うと、準備不足。 そして想定外の誤算。 信長を討ったあと、光秀は当然、先々信長の弔い合戦が起こるだろうと、彼なりに準備を進めていました。 特に柴田勝家あたりになんてホントに恐れていたんです。 て

      • 歴史に残る日本三大悪女。

        日本三大悪女、みなさんはご存知ですか? 今回はその不名誉なラインナップに名を連ねた、豊臣秀吉の側室、「淀殿」についてです。 淀殿は、信長の妹 市と、浅井長政の長女で、豊臣秀頼の生母でもあります。 父と兄を伯父 信長との戦いで、母 市とその再婚相手である柴田勝家を秀吉との戦いで亡くした後、皮肉にも仇である、秀吉の側室となったという、波乱万丈の生涯を送りました。 彼女が稀代の「悪女」と呼ばれるようになった、一番大きな理由としては、大阪の陣で徳川家

        • ここでひとつ今川義元を褒め倒す。

          今川義元というと、必ず付きまとうのが桶狭間で完敗した黒歴史。 そして謎のお歯黒にマロな眉毛、独特の装い。 「おじゃる」とか公家言葉使ってエセ公家かぶれ。 バカ殿のルーツだとか。(いいすぎですね) そんな義元のイメージを少しでも挽回するべく、 今回は彼の偉業をいくつか紹介します! ●駿河、遠江、三河の3ヵ国を支配。 (そこにたまたま金山があってそこそこの収入源ゲット。) ●積極的な領地経営。歴代当主の中で最も多く検地をこなした。 (先代のお父

        麒麟がくる 最終話

          なんとかなるさ。

          足利尊氏 鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の物狂いの沙汰、建武の新政に手を貸して、結局は後醍醐天皇と対立し、まぁまぁややこしい南北朝時代を招き、兄弟喧嘩の末に室町幕府初代将軍となりました。 (悪意ないです笑) こう書くとあれですが、実は魅力的な方であったようです。 足利尊氏と個人的に親交のあった夢窓疎石(むそうそせき)が3つの彼の特徴を記録しています。 ① 「心が強く、戦で命の危険にあっても、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。」 戦場での肝の据わりようは格

          なんとかなるさ。

          逃げるは恥だが天下は取れる。

          徳川家康ご本人も人生のうちのダントツ1位で死ぬかと思った件と言う伊賀越え。 これを語るにおいて、伊賀の忍者と服部半蔵の存在は欠かせません。 織田信長が本能寺で亡くなったとき、家康は40人余りの手勢を率いて堺にいました。 一行は平服で何の戦闘力もなく、途中には明智の軍勢はもとより、各地で一揆が多発していたのです。 家康はその時、「もうむり人生おわった」と相当取り乱し、自刃しようとしたのを周りが必死に止めたとか。。。 その家康らが堺から三河へ帰るのを手助け

          逃げるは恥だが天下は取れる。

          光秀の殺害予告文、匂わせがすぎます。

          天正十年5月28日、愛宕山連歌会が開かれました。 明智光秀がかの有名な、本能寺の変での信長への謀反をにおわせた歌を詠んだあの会です。 「ときは今 あめが下知る 五月かな」 当時光秀は秀吉の援軍のために中国へ向かう途中に寄った京都の愛宕山(愛宕神社は軍神として武家に信仰されていました) で、連歌会を開き、そこでこの句を詠んだといわれています。 「とき」→「土岐氏=光秀の出身」 「あめ」→「天=天下」 「下知る」→「命令」 「土岐」氏出身の明智光秀が「

          光秀の殺害予告文、匂わせがすぎます。

          歴史は変わる。本当の長篠の戦い

          1575年、長篠城をめぐり、 「織田信長・徳川家康の連合軍」と「武田勝頼」による長篠の戦いが起こりました。 長篠の戦いと聞いて、我々の世代が(勝手に同世代くくりにしますけど笑)まず思い浮かぶのが 「織田軍の鉄砲三段撃ちVS武田騎馬隊」ですよね。 教科書でも「信長の新たな戦法」が、かつて全盛を誇った「武田の騎馬隊」を撃墜し、戦国の戦い方のひとつの転換点になったと習った記憶があります。 我々岐阜人は幼心に「ほらやっぱり信長すごい。信長最強説。」 み

          歴史は変わる。本当の長篠の戦い

          stay home 丹羽長秀

          「丹羽長秀」 知名度や人気では勝家や秀吉に劣りますが、信長からの評価は最も高かった家臣かもしれません。 丹羽長秀は天文四年(1535年)生まれ。 織田信長のひとつ下でした。 天文十九年(1550年)頃から信長に仕え、生涯一度も背信することなく、各地を転戦し続けました。 ちなみに柴田勝家はもともと信長の弟 織田信行の家臣で信長を排除しようとしたことがありましたし、 秀吉も実は最初の主君が信長ではなかったので、それに対して長秀の誠実ぶり。 信長は彼を「友であり、兄弟」と

          stay home 丹羽長秀

          戦国軍事パレード 京都馬揃え

          1581年2月28日は、織田信長による京都馬揃えが行われました。 本能寺の変の前年で、信長48歳。 織田軍総動員、天皇や公家衆も招待し、前代未聞の規模となりました。 このパレードの目的は、天下布武を標榜する信長が 周辺大名を牽制し、力を誇示するためだったという説が有力です。 その頃はまだ、征夷大将軍だった足利義昭や天皇家をも招いたのは、その身力を見せつける必要があったのでしょう。 「馬揃え」とはいわゆる軍事パレード。 参加者は500騎以上、全員豪華絢爛な衣に身を

          戦国軍事パレード 京都馬揃え

          NEVER UNDERESTIMATE 三好長慶

          天下人といえは、信長、秀吉、家康を思い浮かべる人が多いと思いますが、 戦国時代において最初の天下人と言われるのが 「三好長慶」。 三好長慶の父、三好元長は足利将軍家の重臣、細川晴元の家臣として、 大きな功績をあげていました。 これがあまりにもデキる男のため、 晴元がその勢いを警戒して一向一揆を起こし、 元長を暗殺します。 当時、息子の長慶は10歳。 三好家の家督を継承しました。 一向一揆はその後もどんどん大きくなり、晴元自身でもお手上げ状態になっていました。 そんな

          NEVER UNDERESTIMATE 三好長慶

          もし本能寺の変が起きてなかったら。。。

          今期の大河ドラマもまもなくクライマックス。 麒麟がくるではどのように描かれるのでしょうか。 今回は歴史にifはありませんが、もし本能寺の変がなかったら。。。 を考えてみたいと思います。 完全に個人の意見です。 よかったらみなさんの意見も聞かせてくださいね。 もし、本能寺の変がなく、織田信長が天下を取っていたら。 そもそも光秀が決起していなくても、他の家臣からのクーデターで遠からず命を落としていたのでは? とも言われますが、、、 ①戦乱の世が終わ

          もし本能寺の変が起きてなかったら。。。