見出し画像

安心できる存在とは

(※本文は普段と同様、1,500字程度です。)



純粋な、ただそれだけのシンプルな"安心"。余計なことなど何も考えなくていいという安らぎを、ただ一心に渇望していたのではないだろうか。

人の言うことがただ信じられないだけかと思っていたが、今私にとって本当に尊く見えるのは、信頼よりも安心だと気がついた数ヶ月前。

信頼と安心はとても似ているが、安心の方が、より感覚的で無条件なもののように感じられる。
信頼には何かしらの理由や根拠が必要だけれど、言葉では説明のつかない安心がきっとあると思っている。

私も誰かにとってのそれになりたくて、一体どんな特徴の持ち主なのだろうと考えてきた。
「これは安心できる存在だよなあ」という方面からも、「これではだめだ」という方面からも、色々書いてきた。
(それらのご紹介が最後にあります。)


隣にいて安心できる存在を作るためには、相手に色々な性格を求めてしまうことになる。
でもそれだけでは不十分で、自分もその相手を信頼して歩み寄らなくてはいけない。

まず、隣にいて安心できる存在に求めるものとしては、素直さや実直さのようなものが挙げられると思う。

上っ面だけの言葉で満足している人の本心は、いつか見えてしまう。

安心できると思ったのにそうでなかった。自分はすっかり安心して信頼もしていたのに、実は身を危険に晒しているだけだった。そういう痛みが残す傷は深い。

どんなに正しいことを言っていても、言い方やその人の性格の一面の見せ方の違いに違和感を覚えるのであればその感覚を疑うことは決して間違いではないと思うのだ。言葉にする前に消える違和感をすくい上げられるのは自分だけだ。

それで「なんだ、自分のことを疑っているのか」と逆上したり攻撃したりしてくるようなら、それは少なくとも安心できる存在ではないということになる。

最初からぶっきらぼうならそれでいい。最初から優しいならばそれでいい。
ただ、関係を築いていくうちに見つかるその一面を真っ直ぐに受け止められるか、それが大事なように思う。



あとは、「あなたのため」という言葉に包まれた行動が、本当に「あなたのため」になっているかどうかも、個人的には大事な点だ。

「あなたのため」と言われると何事も悪い気はしない。大切に思ってくれていることが伝わる言葉だから。

でも、その特性を逆手にとって都合よく扱おうとしているだけの人もいるのが本当のところだと思う。
それは本当は、「あなたのため」ではなくて「自分のため」になってしまっている。
自己満足を得たいだけの言葉を振り回す人にはあまり近寄らない方がいいかなと思っている。


ただこれらは、偶然隣にいた人に「私にとって安心できる存在でいてください」なんて押し付けられるものでもない。それこそこちら側の自己満足だ。
そういう人を見つけよう、きっとそういう人の特徴は…という、ただそれだけの話である。

同時に、自分が努力しなくてはいけないことの方がたくさんあるように思う。
努力してはじめてそれ相応の結果が得られるのは、何もこれに限った話ではない。

どんな人であれば…と思いを巡らせてみれば、いうまでもなく、こちら側にも素直さが必要だ。

それから、自分という存在を確立していないといけない。隣にいて安心できる人がいなければ自分の形を一切保てないようなら、ただの依存にしかならない。

他にもたくさんある。

結局のところ、隣にいて安心する存在がほしいなら、自分がそういう存在になることが必要なのだろうと思う。
この点、「私も誰かにとってのそんな存在になりたい」と強く思った私の進む方向は間違っていないのかもな、と少しだけ自信をもっている。

どうされたら安心できるか。何をされたら傷つけてしまうか。
言ってみればそんな言葉で全て説明がつく。

それでも説明しきれない心のわだかまりの正体を明らかにするのには、もう少し時間がかかりそうだ。

以下、関連記事のご紹介です。

幸福や絶望をぶつけるということは、相手を信頼しているからだと思いたい。

自分の本当の思いをぶつけることから逃げて内々に消化しているだけではきっといつか破綻するし、安心する存在を求めるのとは逆方向に進んでいるかもしれない。そこに頑強な信頼はない。

私は私を叱ってくれる人をある意味で苦手としつつ慕っている分、叱ってくれていた人が「ただの怒る人」になってしまったときの切なさを知っている。

「あなたのため」で価値観を押し付けて従わせようとするのは、正義を振り回すだけの暴力と変わらない。愛のふりをした矛ほど当人を惑わせ苦しめるものはない。

他人は自分のために何かをしてくれて当然、とか、
彼/彼女の思う人生観・価値観を他人ももっている、とか、
自分の想像力の範囲外のことに対してひどく無関心で否定的、とか。

謙虚ではないそんな人は、きっと安心できる存在ではない。それと同時に、自分も謙虚でなければ、安心できる存在にはなりえず、出会うこともできない。

私はどうやら嘘と建前を履き違えた人が苦手らしい。

誰かに自分の思いを伝えるときに嘘ばかり吹き込んでいては、それはもはや自分の思いではない。安心という感覚的なものに、緻密な策略や計算は不要だ。

どんなにすごい人格者であろうと、他人の価値観を貶したり根こそぎ否定したりする人を尊敬することは、私にはできない。

互いを心から思い合うとは、本当はそう難しいことではないのかもしれない。懐疑的な見方がすべてをそうさせているのなら、そんな相手の価値観をも受け入れる優しさがあれば、その人を救うことができるかもしれない。

そして、

それに比べて関係が親密になってくると、お互いに良くも悪くも優しくなる。互いの考え方や感じ方がなんとなく分かってくる。何をされたら嬉しいかが分かるのと同時に、何をされたら嫌なのか、悲しいのかも分かってしまう。

優しさは平和のために。逆用すれば、この上なく恐ろしい凶器だ。