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瞳に映るもの

相手の目を見て話す、というのは小学生の頃に教わったことだけれど、自分にとっては意味が分からず、むしろ相手と目を合わせたら殺されるような気すらしていた。
ここになんの誇張もない。本当に怖かった。

私はそのくらい人の眼差しに恐怖を抱いていた。
一度意識的に試してみたとき、胸を刺されるような気分がした。

どうしてあれほど恐れていたのか、どうしていまだに少し怖いのか、そんなことを考えてみる。でも、もう癖になってしまっていて、怖いものは怖い、という感想しか出てこない。

ようやく最近は改善されてきた。
苦手だったし不器用だから、目線がまだまだ泳いでしまうけれど(嘘をついているわけではない)、努力はしている。

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スピリチュアルな話をするつもりは全くない。

目を見ることへの抵抗が少なくなってきてから、その瞳に映るものを意識するようになってきた。

興味が湧くと、無論、苦手なんて言っていたのが嘘のようになる。

例えば、目の奥が笑っていないという表現もあるように、瞳にはその人の本当の感情だったり、育ってきた背景で養われた感情の基礎のようなものが反映されているような気がする。

根っからの明るい人も、何か悲しいことから立ち直ったことをきっかけにそういう性格になったと言うかもしれないけれど、やはりその傷跡は大きくて、瞳にまだどことなく寂しさがあるような。

やんちゃばかりしている人も、瞳に抱えている悲しさやつらさを紛らわせるためにそんな行為に走っているような。

そんなのを観察していたら、人間はどこかでみんな寂しさを抱えて生きているのではないか、と改めて気づかされた。

当たり前のことだけど。

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目を見て対話することは、その人と向き合うこと、すなわち、その人の脆さに向き合うことだと思う。

10日ほど前の自分によれば、それは自分が抱える孤独に向き合うことでもあるらしい。




人間は繊細で壊れやすい。
なのに他人を傷つけてしまうのは、その寂しさのやり場がないからなのか、その寂しさを代わりに満たすためなのか。

話は逸れるだろうか、ひとまずこの例を挙げたい。

転院前、治療に携わった医療スタッフに対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の言葉を伝えたという。

容疑者のしたことを擁護する目的では全くないが、この発言は無視できないと思っている。

この言葉に、生い立ちが映し出されているように思う。

人の優しさに触れずに育った生涯が、孤独が、彼をそうさせたのではないだろうか。

きっと彼の瞳にも、そんな寂しさが映っていたのではないだろうか。

そんな風に考えたら、広い視点では、そんな事件を巻き起こす可能性のある孤立化を防ぐ必要があるし、事件性などの話は差し置いても、誰もがそんな脆さを抱えて生きているということを誰もが自覚していなくてはならない。

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話を少し個人レベルに戻すこととする。

瞳には、その人の本当の感情が表れている。
人の目を見て話す、あるいは人の目を見て話を聞くというのは、「あなたに話していますよ」、「あなたの話を聞いていますよ」の象徴であるだけではなくて、「あなたのことをもっと知りたい」という気持ちの表出でもあるのかもしれない。

孤独=寂しいという前提の中で生きている私たちは、やはり自分の脆さ、ひとの脆さに向き合って生きていく生き物なのだろう。