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心の居場所のつくり方

「心の居場所がない」、そんな事態に直面したことがこれまでに何度かある。

集団の中で関わるうちに自分が異質なもののように思えて、私の居る所はここではないと感じ、無言で消えるように去っていったり、喧嘩をして去っていったり。

それは本当に些細なことで、たかだかクラスの中での"仲良しグループ"とか、ひとりとのすれ違いとか、そういう次元の体験談に過ぎない。けれど本質的に考えると、周りに馴染みきれないことに自分の限界を感じて集団からログアウトしてしまうのは将来的にも起こりうる。

比較的順応性は高い方だ。相手の顔色を伺うのも得意と言えば得意だし、集団の中での立ち居振る舞いも柔軟な方だ。まあ、悪く言えば個性がブレブレで同調しがちなだけだけれど。
"仲良しグループ"からはみ出さないように生きることが私の人生の目的ではないので、その辺りはご容赦願いたい。(この言葉を伝えたい人たちは、おそらくこの文章を読んでいないだろうけれど)

そう、順応性が高いと自負していたので、それでも馴染めないことがあると少しばかりショックを感じることもあった。
何日もすれば忘れるくらいの小さなショックも、積もれば私の性格が帰納的に導き出されてしまう。

そんなふうに心の居場所に飢えてきた私にとって、心の居場所というのは、自分で作ろうと思って初めて生まれる場所だ(…トートロジーが過ぎる)。

よく「居場所を見つける」とは言うけれど、見つけただけで終わったなら人は到底豊かさを手に入れられない。

見つけたら、そのスペースを借りて、自分の居場所を広げる努力をしないといけない。

「よく見つけてくれました!」という歓迎の雰囲気はあるだろう。むしろその歓迎の雰囲気があるから、「ああ、ここは本当に私の居場所になるかもしれない」と期待で胸を膨らませることができるはずだ。

けれど、「あなたが来るのを待ってました!ささ、あなたのためにスペースを用意しておきましたよ!ほら!」なんていう至れり尽くせりの場所は、残念ながらない。

ちょっと苦しく感じるかもしれないが、それが私の現実の見方だ。

でも決して心の居場所づくりが困難を極めることだと言っているわけではない。

居場所になりそうなところを見つける。実際に足を踏み入れる。自分が「心の居場所を見つけた暁には…」と思い描いていたことをしてみる。
それに拍手を贈ってくれたり、背中を押してくれたり、居場所を広げる手伝いをしてくれたり、あるいはそっと見守ってくれる人がいて、なんとなく惹かれあう。やがて心の繋がりができる。
それで、「ここが私の心の居場所だ」といつの間にか実感する。

たったそれだけのこと。

でも、私は知らなかった、この年になるまで。

「たったそれだけ」なんて言われても、「いや、めっちゃ怖くない?難しくない?その最初の一歩、死ぬほど緊張するんだけど?」と数年前の私は半ギレで返していただろう。
いや、そもそもここまで読んでいない質の人間だったはず。

旅館ばりのおもてなしで特別扱いしてくれる場所はない。あったとしたら、それは心の居場所ではないのかもしれない。

それはそれで居心地が悪くないか?と個人的には想像している。ずっと入り浸っていたら不安にもなりそうだし、怖い印象もある。

私が今ものを書いているこの場所だって、自分で作り上げてきた。
友達が使っているのを知って、珍しく新しいことに挑戦する気が起きて、いざ書いてみたら歓迎の雰囲気に後押しされて豊かになった。
それで、今度は誰かの心の居場所を作る手伝いをする側になっている…と思っている。勝手に。すみません、都合のいい者で。


何事にも至上主義と冠して語らないのが私のモットーだから、この場所に関してもその言葉はあまり使いたくない。これはもう、自分で分かりきっていること。

でもやっぱり圧倒的に居心地がいい。
それもこれも、こんな長い長い独り言を最後まで読んでくださったあなたのおかげです。後押ししてくれる人も、もちろん見守ってくれる人も。