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描いた大人像

誰に干渉されても惑わず、揺らがず、しかし単なる意固地とは違う、ただ自分の人生に真摯に向き合う、そんな大人になりたいと思った。信念をもつだけではなく、それを貫こうとする姿勢に憧れた。

誰を見てそう思ったのか、全く定かではないが。

それにひきかえ、憧れた当時の自分とくれば、つまらないことで悩み、意地を張って衝突し、心の中で刺々しい独り言を呟き、考え事は空転ばかりする。その度にいつも「大人になりたい」という気持ちをどこかで抱いていた。

社会的にも大人になったこの頃、まあそうはいってもまだまだ幼いとは思っているのだけれど、その絶妙なモラトリアムのほぼ出口のところでずっと考えている。

私にとっての「大人になる」とは、一体何なのだろうか。
今の私は、昔の私が憧れた大人になっているだろうか。

昔の私に言わせてみれば、きっとこんな大人にはなりたくなかったと言葉が返ってくるかもしれない。心のどこかでそう思っている。

惑わない、揺らがない、意固地にならない、真摯な姿勢。
それらを掴もうとして必死に泳いでいるが、溺れているように見えるかもしれない。あるいは、周りにものすごく干渉されているように映るかもしれない。

だとしたら軌道修正をしなくてはならないだろうかとも考えたけれど、きっとそれも違う。
幼い頃に描いていた大人像が全て正しいなど、誰が保証できるだろうか。

大人になる過程で、大人になることとは、自由を知り、孤独と向き合うことなのではないかと思うようになった。
昔の大人像の真っ直ぐな姿勢は、きっと「自由を知る」の部分に包含されている。

楽をしたり苦を味わったりするうちに、私の中では「私の人生を生きるのはただ私のみ」という意識を強くもつようになった。

時に残酷な「自分次第」という言葉。
それに尽きる。

つまらないことで悩んでも、誰かと衝突しても、順風満帆でなくても、大人は大人だ。
ただそれに託けて自分の不運を嘆いたり誰かのせいにしたりするのは子供にもできる。そうはせず自分ごととして取り合うことが、自分にとっての「大人になること」だと気がついた。

もう少しポジティブな意味で言えば、やりたいと思ったことに対してひたむきに努力できるのが大人だ。
ただ自分の目標に向かって進んでいく。時にそれを努力とも思わず、一心不乱に。
自由とは、そういうことだ。

それで、自由なだけならいいかもしれないけれど、そこには孤独がついて回ることを知った。

「私の人生を生きるのはただ私のみ」なので、それ以外の人物は主役になり得ない。
それ以外の人物は、各自の人生を主役として生きているはずだ。

気のおけない友人と喋っていようが、ネットでどんなにたくさんの知り合いや赤の他人と繋がっていようが、人は孤独だ。

そんな孤独もまた残酷なので、私は時々苦しくなる。
すごくつらくなる。切なくもなる。たまにふっと気が抜けてしまうこともある。

それでも自分の裁量で自分の生き方を決められるって、これ以上楽しいことはないんじゃない?
同じように孤独と戦っている仲間が何十億といるって、これ以上心強いことはないんじゃない?

どこかでそんな声も、聞こえている。

昔から泣き虫の私は、今の私に

「ごめんね、あなたが描いた姿にはなれなかったかもしれない。」

そう声をかけられただけで切なくなって、頬に涙を伝わせるだろう。

「でも、もっといい方向に進めるように頑張っているから。」

ちょっとだけませていた私にも、さすがに「自由と孤独はセット」という言葉は、誰かからの受け売りで得た薄っぺらい知識でしか消化できなかっただろう。
だから、もっといい方向と言われても、何のことかと返されるかもしれない。

「いい方向は、いい方向だよ。
そのうち分かって今の私がいるんだから、大丈夫。」

曖昧に聞こえるそんな言葉を、きちんと考えたうえで自信をもって口にできるくらいには、思考も空転のしがいがあったかもしれない。