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個性は買うな、探せ

個性とはどこかから買って得るものではなく、自分の中に眠っているものである。

どんな人も個性をもっている。自分は無個性な人間だという意識がある人も、自分の中に眠っている個性に気がついていないだけだ。
あるいは、自分の中に眠っている個性があまり好きではなくて、目を背けているだけだ。

上辺だけ飾っただけでは、到底個性とは呼べないのだと思う。

生まれもったものだったり何十年と積み重ねてきたものだったりするからこそ、個性とは自分にとっては普遍的なもので、ときに見落としてしまう。
自分の中で当たり前だと思っていたことが、実は個性の一つだったということは往々にしてよくあることだ。

個性自体は人と比べるものでは決してないけれど、自分の個性に気がつくのはいつでも誰かと関わり合い、誰かの個性に触発されたときではないだろうか。

本当はどの人にも輝かしい唯一の個性があり、その個性のひとつひとつに価値がある。誰かの個性に刺激を受ける機会が少なければ、その価値をなかなか見出せない。自分には個性がないのだと思い込むようになり、結果として出来合いの個性を身につけ始める。

出来合いの個性は確かに見栄えがいい。
自分の狙った通りの個性を醸し出してくれる。一見しただけなら、誰もが頷いてくれるだろう。

けれどそれは長くは続かない。人は関わり合っていくうちにやがて、その個性はその人の内側から生じたものではなく、誰かが作り上げたものであることが分かってくる。
誰かが作ったブランドを身にまとってそれらしく振る舞うことは、自分の個性を発見するきっかけにはなるかもしれないが、自分の個性にはなりきれない。圧倒的にひょろひょろで弱々しいのだ。
できることなら、個性だって持続的なものでありたい。

無個性だ、つまらない人間だと言われて傷ついた経験のある人も一定数いると思う。

多分それは見る側の問題である。
無個性に見えているのもつまらない人間に見えているのも、それを刺々しく言う側がその人の個性を見つけようとしていないだけだ。

なので「ああ、本当に私は無個性なんだ、自他共に認めるものなんだな」なんて思わない方がいいと思っている。

個性はちゃんとある。自分の中に眠っている。
それを見つけようとするか否かは、紛れもない自分自身にかかっているけれど。
自分で見つけようとしなければ、刺激を求めようとしなければ、確かに"無個性"のままになってしまう。
どちらを選ぶか、誰も邪魔はしないはずだ。

発見した個性が気に入らないなら、もっと汗をかいて個性を探し続ければいい。

もっと輝かしい、心動かされる自分の個性を見つけたい。その気持ちは原動力の最小単位だ。決して見逃してはいけない。

私たちそれぞれが抱える、それぞれにとって普遍的な個性というものは、日々放つ色を変えている。昨日は見えなかったものが今日なら見えるかもしれない。いくらでも、いつまでも、探し続ける価値はある。


裏を返せば、昨日は見えたものが今日には見えなくなるかもしれないということだ。

日々ゆっくりと静かに変わり続ける内なる個性を見つけるのは面白くも退屈なものであり、易しくも難しいものであり、自分のことをよく知るには欠かせない大切な行動だと思う。

退屈だと言って投げ出して誰かから買っただけの個性を装い続けて生き続けるのは、あまりにもさもしい人間のように見える、そんな気がしている。