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夢か現か、それとも

十年かそれ以上か遡らなくてはいけないが、自分以外の誰が生きた人間だろうか、と頭のどこかで大真面目に考えていた時期がある。

そんなことに思いを馳せるとき、きまって宙を漂っているような、何も掴めないような気分に身を包まれた。
眼前の景色、流れてくる報道、自身の五感…全て幻想なのではないか、と。

いつ知ったのかも記憶にない言葉に、水槽の脳(Brain in a Vat)というのがある。


今 目の前で見ている世界は全て

水槽に浮かんだ脳が見ている夢

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当時の私の目には、どれほど無機質に映っていたのだろうか、世界も人間も。

ふと油断すると宙を漂ってしまう自分は、そんなことを忘れるほどの楽しさを周りの人間に求めた。
近所の友達と一緒に遊んだり、姉とゲームをしたり、塾に通って勉強したり、教室に通ってピアノを弾いたり。

確かにそうすれば気は紛れた。でもそれらが終わって自分の家に戻ったり片付けを始めたりすると、紛れた分が後からやってきた。ひどい時なんてまっすぐ歩けなかった。

誰も信じられないなあ、と思って気の済むまで無意識の行動ばかり起こした。何気なく窓の外を眺める時間も長かった。
そうするとやがて私の脳は水槽から解放される。

でも、いつでも無機質に映っていたのだとは思う。

身近な人に虚言癖のある人がいたからか、嘘をつくことについてはかなり敏感だった。でもきっとこの人が嘘をつくのも予定調和なのだろうとどこかで思ったりもした。

もう少し大人になると、本音と建前に敏感になった。この時にも同じことが言える。大人とは本音と建前の分かる、そしてそれを自由自在に、巧みに操ることのできる人間のことを指すのだろう、だとしたら誠実もへったくれもないな、と悲観した。

無機質で、味気なくて、つまらないと思った。

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「その他大勢」に溶け込むとき、水槽の中に自分の身を放り投げる感覚が今でもある。
脳だけではなく、もうその身が水槽に浮いている。

「その他大勢」に一度属してしまえば、全てが無機質に見えるし、自分すら無機質に見える。

「その他大勢」は、示されたことに対していつでも首肯するのではない。
示されたことの良し悪しを見ずにひたすらに讃するというよりは、「周りの反応と同じ」を求めて讃するなり拒むなりするという方が適切なように思う。場合によっては同義になりうるが。

脳だけが水槽に浮かんでいたあの頃は、目の前に見える全てが不完全で下手な幻想に見えた。
でも、今はその感覚に身を包まれることもなければ、歩けなくなることもない。
その代わりに、普段なら「現実」を見ているはずの自分の身体を水槽に投げ込んでしまう、いや水槽に自ら飛び込んでしまう感覚を得てしまった。

でも、「現実」で生きているという形もない確証をどこかで得ることができたから、「その他大勢」になることを忌み嫌った。
もしそれを選んだら、自分は閉じ込められてしまう。

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今周囲の人間や世界が無機質に映っているのかという質問をされるのならば、それに対しては首を横に振りたい願望がある。
というより、その願望しかない。

自分が何者かはさておき、自分だけが異質な世界も、自分さえも無機質な世界も味気ない。自分が何者であれ、せっかく「生きている」という感覚だけは確かなら、自分の思うように生きたい。

昔とは比べ物にならないくらい周りの世界は彩られているし、ひらけているし、豊かだ。

でもどこか「冷めている」のは、きっと今でも時々脳が水槽に浮かんでいることにどこかで気が付いているからなのかもしれない。

まあ、そんな難しいこと考えなくても、幻想だろうが現実だろうが、自分の思うように生きればいいじゃんね。

その選択肢だけを握りしめて、私は水槽の中をガラス越しに見ているつもりだ。

それすらも、夢かもしれないが。