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切り取り方の問題

物事や人物に対して抱く印象とは、切り取り方次第だと思っている。

つまりは、同じ物事や人物に対してそれぞれの人が抱く印象の差とは、切り取り方の差ではないだろうか。

時々、ある人物がそれまでと違った人物のように見えることがある。
シンプルな例を考えるなら、いつも怒ってばかりだと思っていた人の見せる優しさ、とか。

最初に抱いていた印象というのはあくまである一面を切り取った結果にすぎなくて、別にそれと違う一面が現れることは本来なんら不思議なことではないのだ。


自分の都合次第でどうにでも認識できるのだから、そういう意味では、人間は身勝手だ。

ネガティブなフィルターをかけるも、ポジティブなフィルターをかけるも、自分次第である。

そのくせ自分でフィルターをかけていることになかなか気づかない。
自分の見えた世界を自分の言葉で形容して伝えて初めて、自分でフィルターをかけていたことに気がつく。

まだまだだな、と思うことが多い。
結局は自分の価値観を誰かとの対話の中で押し付けているのだろうし、誰も気がつかないうちに誰かが傷ついているのだろうなと思う。

誰も永遠に気がつかなければそれは結果オーライかもしれないが、いつもそうなる保証なんてなくて。

私という1人の人間から不特定多数に言葉を発信する場所、たとえばこの場所では、正直何も忖度することはなく、ただ素直に自分との対話を書いていくだけなのだが(もちろんそれはそれで難しいことではある)、言葉を届ける対象が決まっている実世界のコミュニケーションはもっと基本的なところでものすごく神経を使う。

極論、自分が神経をすり減らすのも自分の勝手なのだが、相手が苦手なタイプだとその勢いがものすごい。それの現れである引きつった笑顔もこのご時世ではマスクに覆われて相手には届かない。気づかれないままどんどん進んでしまう。

しまいにはイライラしてしまってネガティブなフィルターがかかり、「どうしてあんなにデリカシーがないんだあの人は」なんて思ってしまうこともある。それを言葉にして外に出してしまえばこだまして自分に返ってくるのは明らかなのでそっと留めておくが、容量を食いまくりである。いうなればパソコンの「ゴミ箱」に延々と残り続けているような、そんな感じだ。


こんな感じで1人で勝手に疲れてしまう。
昨日もその典型だった。

小さなことでは悩みたくないと思っているのだが、私にとってはどうしても大事件になってしまう。



…考えすぎ?



分かっている。

ここで紡ぐ言葉だって私の切り取り方次第なんだよなあ、と思いながら毎日何かしら書いている。

自分と向き合うための場所にしているとはいえ、読もうと思えば誰だって読める場所に置いているので、そのことは多少意識している。

自分の考えていることを自分なりに切り取り、自分なりにフィルターにかけ、自分なりに言葉に乗せてネットの大海を漂わせている。


他の方の投稿を読んで「そう、私はそれが言いたかったんだ…」と感銘を受けることが多々ある。
そのときは同時に、雑な切り取り方で輪郭も断面もあまり美しくない私の言葉が酷く稚拙で、歪で、恥ずかしくも見える。


でも、きっと自分にしかできないかった切り取り方なんだろうなと思うこともある。だって、私が経験したことや考えたことそれ自体は、まずは私が切り取り、私の言葉で語るのが一番似合っているはずなのだから。

同じようなことはきっと、読み手であり書き手であるあなたにも言えるはずだ。



自分をどう切り取るも、相手をどう切り取るも、フィルターをかけるもかけないも、すべては自分次第だ。
こんな言葉はときに非情だが、私が小さな世界を生きる人間であるなら、ちっぽけな真理であるようにも思える。