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ぼんやりと

自分には欲がない。


厳密に言うと、“したくない”という欲が強すぎる。

超絶めんどくさがりなので、何事も省エネで生きたいのだ。


うつ病真っ最中の時は生きることすら嫌で、生きるための欲を全部捨てようとしていた。

食べたいと思うことも、衣服を買うことも、風呂に入ることも、生きるための行動全てが気持ち悪くて、本当に吐き気がしていた。


起きていると強制的に生きなければならないので、生きることから目を背けるためにずっと寝ていた。

寝たきりだった。


その時の私の欲は「死にたい」のみだった。


環境が変わったり、薬のおかげで脳が落ち着いて考え方が変わったりして、いつしか死にたいと強く思うことは無くなったけど

だからと言って「生きてて良かった!幸せ!」なんてことはない。

完全に寛解した今でも変わらず。

死にたいはなくても、いつ死んでもいいやくらいは薄ら思っている。

というか、生死に関してはもう何も考えていない。


とりあえず今は生きる選択をして、その上で自分が何をしたいか、どういう道に行けば自分にとって良いのかを考えている。

が、そこでいつも自分の元々の欲の無さが壁となっていて、頭を悩ませる。


大体いつも消去法。折衷案。その場の雰囲気とノリと気分で決めがち。自分より周りが第一優先で、そこに自分を合わせていく。


この生き方は自分にとってとても楽で、合っているからこそ大きなトラブルに巻き込まれず運良く生きてこれた。


けど、たまに不安になったりもする。
受け身な生き方だからだ。
こういう生き方だったからこそうつ病になったし、限界はあると思う。

楽だけど、この先長く生き延びてしまって、人生に飽きた時、自分は年老いてて、何か始めたくなった時に老いたばかりに何も始められなかったら…なんて考えたりもする。

今やれることをやれずに後悔するのが怖いのだ。


ただ、そこに自分の「やりたい」という気持ちが伴わないと「やろう!」に踏み切ることが出来ない。

考えなしにやって後悔して、やらなきゃ良かったな…と深く記憶に刻まれることもある。トラウマになったり。

こういう思考こそ、完璧主義だと言われる所以なのだろうけど。

自分の人生の中だけの話なんだから、自分の思考くらい自由にさせてくれよとは思う。


「やりたいこと」にはリスクがあるが、「したくないこと」は自分の中にある明確なものなので決断しやすいのだと思う。


自分の自覚できる範囲での「やりたい」は出来るようになった。
興味の幅が狭いからこそ、その先の大きな「やりたい」が見つからない。

まだ新たな人生は始まったばかりだが、このまま何も変わらない自分のままずっと生きていきそうという不安も持っている。


変化したいという欲は少なからずある。
けど具体的にどうなりたいとか、そういうものは見つからない。
見つからないまま歳をとるだけの人生になりそうなのが怖い。
けど行動目的がないから動き方が分からない。


地道な生き方を積み重ねて成果を得るか、大きな目標を立ててそこに向けて生きていくか。


ま、考えすぎてもな

一周回ってどうでも良くなるのがオチ。

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