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辛いとき、苦しいとき

クリスチャンとしてとても濃密だった夏休みも終わり、勉強の秋がまた始まる。君はどんな時に聖書を読むだろうか。僕は毎朝とりあえず開いて、旧約聖書の中でも大好きな詩篇を読んだり、思い悩んだときや空き時間にその日の気分で読んだりしている。今日話したいのは、

神様のことを本当に愛せているのか

ということ。神様を愛するというのは言葉や行動以上に心の状態が深く関係している。クリスチャンとして、そうでありたい自分と本当の自分の姿がずれてる、そんな不安を心に抱くことがある。最初はもっと神様からの恵みに対して感謝していたのに、だんだん薄れていく。人間にとって"慣れ"ほど怖いものはない。身の回りの当たり前が本当に当たり前なのかもう一度考えたい。家に帰ったら、暖かいお風呂とお母さんのご飯が待ってて、好きなものを買ってもらえて、大学に通わせてもらって、こんなにも幸せな生活はない。ただ、実生活で当たり前のことに当たり前の感謝ができてる人はどれだけいるだろうか。僕は神様がくれる日々の恵みにただひたすらに感謝したい。

辛いことや悲しいことにも"慣れ"は容赦無く襲ってくる。世の中にブラック企業が絶えずはびこり、淘汰されていかないのはそこで働いている彼らが慣れてしまうからだ。もちろんそれだけが問題だとは言わないが、ブラック企業で働いてる人ほど自分がブラック企業に勤めているなど案外思わないものだ。進化の過程で培われた環境適応能力は良くも悪くも恐ろしいものだ。そういう意味では僕も、神様を知る前は、株式会社"罪"の社員だったのかな(笑)。

だいぶ脱線したが、要は"心の状態が大事なんだから、普段から当たり前の感謝を忘れないようにしよう"ということが言いたい。だから、辛い時や苦しい時、神様を疑うようなことがあってはならない。困難や不幸と直面した時、神様からの恵みを感じるのは、幸せな時に比べて遥かに難しい。でもそれは彼女と喧嘩をするようなもんだ。喧嘩をしたからってお互いに嫌っているわけじゃない。神様はいつでも愛してくれるし、見守っていてくれる。彼女のことが好きだから付き合っているのであって、何かをくれるからじゃない。それじゃあ、お金持ちに媚び諂って小銭だけもらっている人と何ら変わりはない。神様とのつながりを普段から感じながら生きるのは難しいかもしれないが、やがて主から受ける報いのことを想い、神に背を向けて滅びるものではなく、信じていのちを得る者でいよう。

それでもどうしようもなく追い詰められて、神様を信じれない人がいれば、この言葉を教えたい。神様は本当に愛してくれているのだから。

箴言3・11-12

"わが子よ。主の懲らしめを、軽く考えてはならない。

主に叱責に、気落ちしてはならない。

主が懲らしめるのは、あなたが憎いからではなく、

あなたを愛しているからである。

主がむち打つのは、あなたが真に神の子どもだからである"

P.S. 一度読んだことある人はごめんなさい笑。考えをまとめて、編集してみました。


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