見出し画像

夜、電気を消した部屋で。

「夜、電気を消した部屋で誰かに見られているような気がしたら、どうする?」
この問いに対する私と友人の回答は正反対だ。

友人は「電気をつけて、いるかもしれない場所をくまなく見る」タイプ。安全を確認しないと落ち着かない、もし本当に何かがいたなら逃げ出すなり返り討ちにするなりしてやる、と言っていた。
対して私は、「目を瞑って見ないふりをする」だろうと思う。だってお化けだろうが不審者だろうが、わたしが敵うはずがないし、それならいっそのこと何事もなかったかのように振る舞いたい。襲われるならそれはそれで、どうにもならないことだと。

そんな私を友人は「野生で生きる上での本能が薄い」と笑う。
でも、抗っても痛いだけだろうと思う。どうせ勝てないのなら、抵抗せず痛みが少ないものを選びたいと。実際に口にしたことはないけれども。

幼少期、家の外へ引きずり出されるとき。当初は必死に抵抗して、泣きながら謝って柱やドアにしがみついていたことを記憶している。けれども、そんなことをしても大人の力にかなうはずがない。そして、どうせ出ていかなければいけないのなら痛みが少ないほうがよいと思いついた私は、自分で歩いて出るから引きずらないでほしい、靴だけは履かせてくれと交渉するようになったのである。

もちろんそんなことをすれば、火に油を注ぐことは明白だ。ただ、年長さんの私が小さな小さな頭を懸命に使って編み出したのである。こんなことを思いついた自分を賢いとすら思っていた。その行為が余計に苛立たせていたと気がついたのは、かなり大きくなってからだった。

自分の中で、抵抗したら余計に痛いという思考はかなり根強くある。このように話すと生育環境だなんだと言われるが、これは生まれつきのものだと思う。自然の中に生きるにはかなり鈍臭い子が生まれてしまったのだろうと。これらのエピソードはあくまで生来の気質が現れただけのように感じているのだ。「野生本能が薄い」という指摘もあながち間違っていないのかもしれない。

けれども私はこの評価があまり好きではない。単に本能の薄さを指摘するだけではなく、「だからあなたは困った中に置かれている」という非難をも含んだ言葉のように感じている。
わたしがわたしのために編み出した「ぼくのかんがえたさいきょうのたいおう」もまた、今の私には必要ないのかもしれない。それでも、簡単に手放すことができないくらいには私を救ってくれたのだと思う。わたしがわたしを助けるために考えたこれを私が否定することは、このやり方で生き延びてきたわたしを再び殺してしまうことと同じような気がしてしまう。