SF創作講座6期 第4回実作の感想(イシバシトモヤ、柊悠里、八代七歩)

イシバシトモヤ『きらきらひかるすべて』


舞台:東京都日暮里?

第1回課題の梗概の印象で、イシバシトモヤさんに対する私のイメージは「金魚の人」だったりする。どことなく退廃的な手触りに、吉行淳之介『暗室』を連想した。『暗室』は金魚じゃなくて、メダカだったけれど。第2回の梗概「エギィァアバキリッ…ジュドドロ…ッルッン」は裏SF創作講座で投票したし、ご本人にも衝動的に感想をリプライしたように擬音のセンスに感服した。私は受講生の方を非常にざっくりと<SF志向>と<純文学志向>、前者は理論重視(連続性)⇔後者は文体重視(飛躍)、に勝手に分類していて、イシバシさんは後者ではないかと思っている。

『きらきらひかるすべて』も”乗ると心身ともに子供に戻るカート”というガジェットが普通の日常にぽーんと放り込まれ、まるで石を投げ入れた水面に波が生じては消えていくみたいに、淡々と不思議なことが起こり、淡々と日常に戻ってくる。とはいえ主人公の精神が何ひとつ変性しないわけでは当然なく、ビフォア/アフターの象徴としてビー玉が登場する。連想したのはあずまきよひこ『よつばと!』。あの作品は、世界の細部に対する驚き(よつばの視線)とその驚きに対する驚きの視線(父ちゃん(と読者)の視線)を重ね合わせることで、そのギャップで世界を煌めかせる手法を職人芸的に成立させていて、『きらきらひかるすべて』も狙っている効果は同じではないかと思う。

日常パートはやや灰色、というか彩度が低く濁っている。喫煙シーンから始まり、子どもたちの後をつけて廃墟ビルに辿り着く一連のアンモラルな匂いのする行動から、エレベーターに乗って受付を済ました瞬間に幼児プレイの風俗店なのかしら?と予想したら、本当に子供になるプレイなのねとちょっと笑う。そこから、童心に戻ってからの躁的な興奮とのギャップがとってもいい。個人的には、最初は子供たちの前で煙草を消さず(dirty)→復帰時にひとまず一服しようとするが子供が登場して踏みとどまる(pure)、ぐらい変性をタバコに託してもいいのではと思うけれど、それは好みの問題。落差は「ビー玉が手に入って嬉しい」だけで十分だし、このフレーズの脱力感と多幸感は素晴らしいと思います。

カートは思いもよらぬ場所に入っていった。細い暗がりの道の先にある雑居ビル。向かいにはラブホテルがあった。カートを押す保育士は子供たちを降ろすことなく、カートをエレベーターへと乗せた。

それを誰が書いていたか失念してしまったけれど、『よつばと!』1巻の表紙について、「引き抜かれた向日葵の根に付着した土が生々しくてよい」といった批評を読んだ記憶がある。子どもの無邪気な世界に死が映り込んでいるようで、手に取る度に表紙を凝視してしまうようになった。『きらきらひかるすべて』において、私が最も好きだったのは「土」の箇所、作中だと前半部分であり、くすんだ、いかがわしい、ヤニ臭い感じ。だからやっぱり煙草は急いで消さなくてもよかったんじゃないかなと、しつこく考えてしまった。


柊悠里『掃き溜めに竜!なのか?』


舞台:埼玉県戸田市

柊さんは第3回課題の梗概の印象が強く、スパイスの取り違えから銀河帝国皇帝まで上り詰める飛躍に驚かされた。登場する固有名詞の印象も手伝ってそのロジックも荒唐無稽なようでありながら、実にリニアで明快で、柊さんは<SF志向>の方ではないかと推察する次第です(繰り返しますが個人的な分類です)。実作、お互いに頑張りましょう!

まず舞台となっている「漕艇場」という聞き慣れない言葉(私にとっては)に強く興味を惹かれた。つい昨日NHKで江之浦測候所の特集を見たのだけど、建物よりも「測候所」というワードばかりに気を取られ、それ以外の記憶は希薄である。これが例えば「ボート場」だったら作品の魅力は相当軽減されるのではないだろうか。水面が引いてゆく漕艇場を自宅のベランダから定点観測する(ボート場を定点観測する、ではやっぱり味気ない気がする)行為、安全な場所から”なにか得体のしれないもの”を観察する気持ちよさ、優越感(これは私が勝手に読み取っただけです)と言い換えていいかもしれない、で連想したのは本谷有希子「マイイベント」。これがどういう話かといえば、タワマンの上層階に住む主人公が、下層階に住む超あつかましい家族に、河川氾濫の夜に家を乗っ取られる話です。

今作の主人公が本谷有希子の登場人物ほどの底意地の悪さを持っているわけではないだろうけれど、「安全地帯にいる主人公が脅かされる」というストーリーの構造は類似している。

定点観測カメラを調整して、2匹目の泥鰌とばかりに水位の上がる漕艇場の定点観測を始めた。漕艇場がほぼ満杯になったころに、水面から無数の光が放たれていることに気づく。各々の光はとても小さく定点カメラの広角レンズでは鮮明に写らない。望遠に切り替えて撮影しようとしたとき、池の西端に紫色の巨大な2つの光芒が現れたことに気づいた。“何か巨大なものが潜んでいる! 特ダネだ!”そう呟きながらカメラを向けた時、その声が頭の中に響いた。

私が面白いな、と感じたのは、「竜?竜なのか?漕艇場にこんなものありなのか?」のセリフだったり、何よりタイトルだったり、主人公および作者が龍の実在をいまいち信じていないことだ(もちろん主人公の信じてなさと、作者の「信じてなさ」はレイヤーも違うけれど、それが重ねられている)。柊さんがどのような効果を狙ったかは分からないけれど、そこにある種の呑気さ、鈍感さ、安全な場所で守られている感覚を読み取ることは容易い。「マイイベント」ではその感覚は侵入者によって踏みにじられるのだけど、今作では最後まで主人公は安全なままで過ごす。犠牲を他の地域に押し付けることで。これはまったく批判の意味ではなく、無責任すぎて笑ってしまった。主人公、ある意味で底意地はかなり悪いかもしれない…。

“巻き上げた水、どこかに落ちるんだよな。その場所はきっと大洪水だよな!でも今はそれは考えるな!”

主人公、及び作者の疑問形はある種の贖罪の意識を反映したものかもしれないし、ぜんぜん違うかもしれないし、それよりも私は「漕艇場」という名詞の引っかかりにずっとつられて読んで、最後の神妙なパラグラフはギャグ、つまり無責任の延長であり、作者の誠実さはそれとは別に、つまり複数の”?”に、託されているのでは、と読んだ。


八代七歩『甲羅の上に』


舞台:東京都亀戸

八代さんはうさぎのひと。きっとこの印象がご本人の狙いであり、一番喜んでくれるのではないでしょうか。プロフィールにも「うさぎが大好き」以外の情報は開示されておらず、かなりハードコア。SF創作講座生はうさぎを飼っている人が多い(大庭さんと岸本さんも飼っていた気がする)。私も飼ってます。

第1回第2回第3回、の梗概では、「うさぎを月に連れて行く」というミッションを八代さんはどうにか遂行しようとしていた。第3回の『貴方のためのマフ』ではうさぎを巨大化させて、その脚力で月までジャンプさせる方法を編み出して、ひとまず当初の目標は遂行した?かのように思う。それは「月にはうさぎがいる」という嘘=フィクションを、せめて嘘=フィクションの内部で本当=現実にしようとする、執念であったけれど、『甲羅の上に』ではとうとう主人公が人間のまま、うさぎとして生まれてくる。それはフィクションで現実の復讐をする、つまりフィクションを荒唐無稽な力で現実(のフィクション)に寄せる、ではなく、現実にフィクションを招き入れることであり、結果、主人公は現実世界の滅亡を夢想することになる。

東京が沈みきって人が誰も住めなくなっても、彼はここを泳いでいく。それが私は嬉しい。

「人間が、人間以外の生き物の姿で生まれるようになった」世界で、主人公は人間のように悩み、人間のように学校に通う。けれど主人公が震わせるのはまぶたではなく、瞬膜だ。隣には机の上に座って授業を受ける亀がいて、(作中に明示されていないけれどきっと人型の)姉と母に囲まれ、正気を保っていたとしても、その歪は「世界の終わり」を甘美に想像することで発散されなければならない。その歪みは現実にフィクションを持ち込む歪の端的な顕れであって、世界の崩壊と再編の可能性すら感じさせる。作中でも書かれているように今作の主な参照点は「うさぎとかめ」だけど、私は読みながらこれ↓を強く強く連想した。

古代ヒンドゥー教の宇宙観では亀が世界を支え、海を泳いでいる。作者がこのイメージを意識的に引用したのか、無意識的に呼応したのかは当然、私には分からない。人類が共有するイメージの通りに宇宙はその姿を変える、とはわかりやすい人間原理だけど、人類の一定数がその姿を動物に変え、彼や彼女が待望する世界の終わりが古代人類の宇宙観とぴったりと重なるのは円環として非常に魅力的で、危うい美しさを感じた。

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