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限界関係性オタクの【忘れてやらない】歌詞考察。山虹の究極はここにある。山田リョウを照らす「眩しさ」を浴びろ

絶対忘れてやらないよ
いつか死ぬまで何回だって
こんなこともあったって 笑ってやんのさ

忘れてやらない/結束バンド

【忘れてやらない】が放つ魅力、その全ては究極的に光であるという点に尽きる。
もっと【カラカラ】のオタクとして魂を寄せて言うのであれば"""眩しさ"""である。

ぼざろにおける私の道とはかくもシンプルだ。上の通り、山田リョウの虹夏ちゃんへのくそでけえ感情を吸って生きている。
即ち【カラカラ】の存在が最大だ。痺れるほどに限界関係性オタクの精神性を刺激するその力こそ最大の魅力。

非常に退廃的で後ろ暗いのだがそれはマイナスな暗さではない。自分の傍には常に照らしてくれる光があるから影として存在することができている。
どうせどこかの誰かみたいに生きれないけどそんな自分を推せないほど卑屈でもない。光の眩しさがあるからこそ自分で彼女のように在らなくてよい。
つまり影のままで、自分らしくいられるという自己肯定の形としてあまりにも【カラカラ】は美しすぎる。
今こうして全ての曲を聴いている状態であってもやはり私は毅然として結局【カラカラ】が最強であると言う。
リョウ山田の飄々とした雰囲気を保ちつつその震えるべき湿度と重みを全面に押し出した歌詞は噛めば噛むほど味が染みてくる。
そう、考えれば考えるほどに【カラカラ】が私にとってのぼざろの最強であり結論であることに揺らぎがなくなるわけだ。

だからこそ話をする必要がある。【カラカラ】を私の最強足らしめる最大の外的要因を。
影を際立たせる「」の存在の話をしなければならない。それこそが即ち虹夏ちゃんの話でありメインとなる【忘れてやらない】の話となる。
外から見たら光に満ち溢れた虹夏ちゃんだがその実ちゃんと自分の中には陰りがあり純然たる光だけを抱いているわけではない。

その上で悪いことすら全てひっくるめて【絶対に忘れてやらない】と言えるから伊地知虹夏は光であり山田リョウにとって「眩しさ」の象徴足り得るのだ

虹夏ちゃんがなぜ光として輝いているのか、その答えは山田とはベクトルの違った「影」の形にある。
先の【カラカラ】にて見える山田の「影」は周りには自身よりも光輝く人間が多くいることを知っている、だから自分は光にならなくて良いという自己肯定の影である。

対して虹夏ちゃんが持つ「影」の形は【忘れてやらない】にて非常に顕著に見える。そう、私が宇宙で最も好きな言葉である「劣等感」だ。
彼女の場合、特に「天才でない自分」に対して劣等感を抱いているということが【忘れてやらない】において描写されている。
そして劣等感を受け入れられる強さにこそ着目すべきなのだ。【嫌いな僕の劣等感】をも含めた上で【絶対忘れてやらない】と言っているのだ。

この自分の抱いている劣等感をも受け入れるという強さ、これこそが【カラカラ】の中で謳われている眩しい生き方であり【どうせどこかの誰かみたいに生きれない】という言葉の真意である。

ここにこそ虹夏ちゃんの光たる所以、その真髄が宿っている。自分の弱さを受け入れ、その上で強くなるべくあがくという点において非常にぼっちざろっくという作品らしさを抱いた点でもある。
劣等感や弱さを持ったままでも前へ進める。猫背のままでも虎になれる。
その弱さを過去のものとしないから虹夏ちゃんは眩しいのだ。弱い自分も今の上手くできない現実も全てひっくるめて【絶対忘れてやらない】のだ。

周りの力ある者たちに置いていかれそうでも必死で喰らいついてあがいているその現実もいつか笑える過去にしてやるという想いのもとに生きている。だから山田にとってそんな彼女の姿は「眩しい」のだ。
不協和音に居場所を探しても見つけられなかった、過去を「忘れられなかった」ことであのバンドをやめた山田からしたら【忘れてやらない】という思考はそのものが絶対的に前向きで根本的に光である。

君が眩しいから 私は影になれる

カラカラ/結束バンド

このフレーズの重みが今ならば骨身に染み渡るだろう。そんな虹夏がいてくれることに対するどでかい感情が凝縮されているからな。
虹夏にはそのままでいて欲しい、自分が自分でいられるから。眩しくてもそこに僻みはない。あくまでも【影でいられる】ということは自分が自分らしくいられるという自己肯定の言葉。
影でいるためには光が必要であるからだ。

光と影という対比を成す場合、更に視野を広げる必要がある。見るべきはもう一つのテーマソングにある。

着目すべきは「あのバンド」という言葉に対するイメージ・使い方の違いだ。
山田の【あのバンド】に対し虹夏ちゃんの【なにが悪い】においても同じ「あのバンド」という言葉が使われている。
これは意図的に同じ言葉を使用している。その上で同じ言葉に全く違う意味を持たせることで2人の光と影を際立たせているのだ。

言うまでもなく山田リョウの抱く「あのバンド」という言葉は音楽性の違いで個性を捨ててしまったあのバンドのことだ。そこには過去のマイナスが詰まっている。
だからこそバンドの名前も出せない、バンドの名前があったのかなかったのかも分からない。どこまで行ってもその程度であり「あの」という言葉程度の認識である。
対して【なにが悪い】においては聴かせてあげたいものとして扱っている。

山田にとっての「あのバンド」とは過去を象徴するものであり結束バンドのなってほしくない未来の名前である。
虹夏ちゃんにとっての「あのバンド」とはいつか自分たちも肩を並べるようになる、あるいは掛け値も打算もない純粋な称賛の言葉である。
【なにが悪い】における【君にだけは聴かせたいんだ】という言葉。これは良さを共有したいという想いのもの。
それが一つの同じバンドを指しているとは言わないが確実に虹夏ちゃんにとっては「ギブス」となっているのがあのバンドである。

この対比「バンド」という存在に対する認識の差異。山田の結束バンドへの執着のでかさ、思いの丈のくそでかぶりをこうして吸うことができるというわけだ。
それは同時に虹夏ちゃんがどれほど光であるのかということを強調することへも繋がる。
そして虹夏ちゃんの眩しさが強調されればされるほどに【君が眩しいから私は影になれる】という言葉に重みが出るのだ。

虹夏ちゃんの光という面に救われているのはぼっちも山田も同じだ。だがぼっちはヒーロー、即ち同じ光の中を目指している。
対して影であり続けることに居心地の良さを感じる山田だからこそ【カラカラ】という後ろ暗くも前向きな最強の曲を扱うことができているのだ。

かようにやはり話せば話すほどに結局【カラカラ】は本当に強いという結論へと世界は帰結する。
しかしそれは幾度となく述べた虹夏ちゃんの「眩しさ」があるからこそ成り立つ現実だ。なればこうして間こそ空いたが彼女の話をするということもまた必然。

周りからみたら眩しい光の虹夏ちゃんだって彼女なりにもがいてあがいているということが分かるということが【忘れてやらない】の最も強く美しい究極である。
それでいてそんなもがいている苦しい今も全て何もかも全部絶対に「忘れてやらない」と言っているのだ。後々笑ってやるために忘れてやるものかと言えるからやはり虹夏ちゃんは光だ。
そして現状に抗う、もがくという行為そのものが諦めていた山田からしたら眩しい。

そんなこともあったなと後々になって、思い返しながら笑うことは難しくない。真にそれより難易度の高い、今の段階からいつか笑ってやると決めてもがくという行為へ挑んでいるのには本当に眩しさしか感じない。
このバランスが非常に美しい。泥臭さと眩しさは調和する、そしてその光に救われる影がある。2人の関係性を表すのにこんなにもわかりやすい構図はないであろう。

結束バンドで過ごすこの一度しかない瞬間は尊ばれるべきものである。それを山田リョウは分かっている。
だからこう言っているのだ【前借りしてるこの命を使い切らなくちゃ】と。

これである。この重みなのだ。虹夏ちゃんにとっては瞬間瞬間、今という刹那であるが山田リョウにとってはこの時間はいつか消える命の前借りなのである。このくそでか感情が見えるか。これである、私の魂の原動力は。
この徹底的に光と影にフォーカスした楽曲間の繋がりと苛烈極まる対比構図こそがぼざろ楽曲の大きな強みである。

この重みと力を理解しているのであればわかるわかる、同じ気持ちさなんて軽い気持ちで言うことなんてできない。
もっと魂のベクトルを上げていけ。まだまだ【カラカラ】からは味がする。私もまだまだもっと山虹の高みへ行けると確信をした。
心の昂りを感じるだろう。聞こえるだろ?

だからな

「進めよ」

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