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インプットは麻薬である

インプットは間違いなく現代の麻薬である。

インプットは、薬物のように依存性が高く、害を及ぼす可能性があるのにそれを世間で言われることはない。むしろ、知的階級にとって「必要なもの」として重宝すらされてしまっている。

確かに、人類にとってインプットは必要である。しかし、現在の「インプット信仰」はインプットの過剰生産を生み出し、その生み出された過剰なインプットは人をダメにしている側面がある。

正直なところ、我々は生きているだけで今まででは考えられらない量の情報を常にインプットしてしまう環境に生きている。

それを欲しているか否かを問わず、全ての人が大量の情報に触れざるを得ない環境ができており、その傾向は都市に近ければ近いほど大きくなっている。

故に、現在東京で働いているサラリーマンは一昔前の人からすれば過剰なほどの情報量に常に触れていることになり、一昔前の人が努力してインプットしている情報量と現在のサラリーマンが普通に生活していて受け取る情報量が同等くらいになっていてもおかしくない。

勿論、その中のほとんどの情報はノイズとしてスルーされることも多く、自分の求めていない情報なことのが圧倒的に多いのだが、インプットが常に過多の状態にあるのは間違いないと思う。

学習はマストから始まる

学習は必要から機会を作るものだと僕は個人的に考えている。だから、学ぶということ常に「マスト」からしか始まることはなく、「ベター」から始まるものではない。

学校でやらされるような将来のための学習は、基礎学力を作る上では大事だと思うが、少し専門化したような分野は学習において一番重要な「必要性」がないため、意味を成していないと個人的には思っている。

だが、我々のほとんどがそれを疑うこともなく、目の前の情報をただただ記憶すること、すなわち必要かどうか・興味あるかどうかは関係なく「情報を増やすこと」を善と教えられてきてしまった。

それが今の過剰なインプット信仰者とアウトプットなきインプット中毒患者を大量発生させている気がしている。

インプットしておけば怒られないし、インプットしておけば褒めてもらえるし、「本を何冊読んだ」とか「あの特集記事を全部見た」とかアウトプットや成果に何も影響を与えなければ意味がないインプットの量が評価の対象となってしまっている。

インプットの中毒性

インプット量は不確定要素の多い「成果」とは違い、やればやる分だけ確実に積み重ねることができるので、確実に他人からの評価を得やすいし、自己満足感を高めやすい。

僕個人の経験としても、YouTube見る時もなんか為になってるような動画見ておけば罪悪感薄まるし、読書とかインプットを増やしておけばやってる感が出てしまうことを本能的にはわかっていたから、易きに流れている部分が大いにあった。

ただ、僕が代表するように、それらの過剰なインプットはアウトプットからの逃げであることも多く、「必要」としていないベターな学習なことも多い。故に、成果に結びつかなければ、自己満足以外の何も生んでいないことも多い。

情報が山のようにあり、インプットをいくらやっても尽きないような現代社会においては「インプットは麻薬である」くらいにインプットを捉えておいたほうがいいと思っている。

本当に必要なら「インプットしよう」という言葉にはならないし、勝手に情報を集め始めているものである。「インプットしよう」こそが偽のインプットであり、中毒状態なことを表す重要なファクターになっている。

「ひたすらにアウトプットし続ける」

そうすれば、自ずといいバランスになるのではないだろうか。

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1997年の日本生まれ。