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飯田朔『もうサヴァイヴしない』を読んで『Apex Legends』

飯田朔『もうサヴァイヴしない』を読んだ。

論考を読んでから、映画『バトル・ロワイヤル』を見た。そしてバトロワゲーム『Apex Legends』について思ったこと。
特に結論もなく話のまとまりもないが、なんとなく備忘録的に残しておきたい。映画についてはなんとなく知っているし、内容についてもなんとなく頭にあるが、見たことがあるかもしれないし見たことがないかもしれない。その程度だった。

論考のなかでは「サヴァイヴ」という言葉について、3つほどの意味で用いている。

まずひとつ目。「サヴァイヴ」とは、ある人が社会の中で生きようとするとき、何らかの能力や努力といったものが過度な形で要求され、また他の人たちとイスをめぐって争わなければならない、そういう考え方、もしくは状況のことである。
(……)二つ目は、「サヴァイヴ」は、必ずしも新しい言葉ではないということ。
三つ目は、「サヴァイヴ」は、ぼくが捉えた意味合いではなく、社会の歪みや問題にさらされた個人が自分の「生存権」を主張するといった文脈でも使われていること(……)
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/corner_of_the_world/11891/2

競争主義的な意味と生存権の主張、2つの意味合いで使われるこの言葉の前者の意味合いを問題としている。
問題とされている社会状況とこの言葉の問題はまったくそのとおりだと思う。いまの社会で生きていくなかで、「いま、何に参加させられているんだろう」とふと素朴に感じることがあればそれはここで「サヴァイヴ」と言われている状況の断片のひとつだ。その生きづらさはその人の条件によっては大変な状況に追い込まれる。その人の人生にとって決定的なものになってしまう。

いまの「サヴァイヴ」の考え方は、自分だけは生き残れ、と人に呼びかけるものであり、言ってみれば「前」へ、「未来」へ目を向けた思考だと思うけれど、一方深作の『バトル』では、死んだ人たちの方を振り返れ、と「過去」を向いていて、これがぼくがこの映画には「後ろ向き」なものがあると感じる理由なのである。


論考で書かれた内容から逸れているようで繋がっていることだが、近年ゲーム市場ではいわゆる「バトロワ」ものが大流行した。
『PUBG』『荒野行動』『Fortnite』『Apex Legends』などが代表的なタイトルだと思う。『Fortnite』にいたっては任天堂Switch版が発売されて小学生にも波及した結果、現実にいじめなどの個人間トラブルが多発しているといった問題もある。個人的にもそういった問題が知人家族の身に起きていることを聞いた。それほどバトロワゲームが売れているということだろう。

映画『バトル・ロワイヤル』を見てまず感じたのはバトロワゲームとの連想だった。見たことがある人からすれば当然のことだし今さらなにを言っているんだと思うかもしれないが、『バトル・ロワイヤル』はまさにバトロワゲームそのままだった。
上記のタイトルは『荒野行動』以外プレイしたことがあり、現在も『Apex Legeds』をプレイしてる。映画『バトル・ロワイヤル』を見ると、Apexのほとんどすべての要素がすでにこの作品にあるという感覚を抱いた。それは公式ゲーム設定だけではなく、現実世界の私たちプレイヤー側のプレイ方法や振舞い方「ムーブ」が映画の登場人物と重なることも含む。


論考では柴崎コウ演じる相馬光子を「奪われる側」から「奪う側」へ回る人物と指摘していた。相馬はいわゆる「漁夫」をして栗山千明演じる千草貴子を殺したり、好戦的かつ戦術的な登場人物。


光子は、より強力な武器を持つある生徒に襲われ、マシンガンと拳銃で何度も撃たれては立ち上がろうとするが、最後に「あたしただ奪う側にまわろうと思っただけよ」とつぶやき、息絶える。

その相馬を殺したのは謎の転校生、桐山和雄だ。この桐山は強制的に参加させられるバトルロワイヤルに唯一自ら参加した人物で、残忍な笑みを浮かべながら次々に登場人物を殺していく。遮蔽物に身を隠さず体をさらけ出して銃を撃ち、銃声や物音のするほうへどんどんすすんでいく。Apexでいう「キルムーブ(生き延びることでゲームに勝利するのではなく、キルを目的に立ち回る行動のこと)」だ。

映画『バトル・ロワイヤル』とバトロワゲームの明白な違いがひとつある。ゲームは不可避的に現実世界の視点が世界に入り込む。参加者=プレイヤー視点では、映画『バトル・ロワイヤル』は強制的に参加させられる一方で、ゲームはプレイヤーレベルでは自ら参加の意思がないと参加しない。ゲームプレイヤーはPCではマウスをクリックして、コンシューマー機はコントローラーを操作して現実世界から「参加」を決定する。
この桐山はApexでいう私たちプレイヤーだった。好き好んで参加し、キルムーブを繰り返した挙句、相馬光子に「フィニッシャー」をきめた。


Apexではダウン(負傷)をとって動けなくなった相手に確殺キルをとるとき、フィニッシャーといって、キルをする側が特別なモーションを伴う映像を双方に流して殺すことができる。内容はキャラクターによって様々だが、各キャラクターの設定にあった方法で、殺した相手を煽って気持ちよくなるような使い方ができる。殺した側の余興だ。
(参考映像:https://www.youtube.com/watch?v=aNaFi4fOFgw

だが一部のフィニッシャーのカメラワークには三人称から一人称へ移行するものがある。出来事の傍観者から、殺される側の視点にスムーズに映る。それは殺す側、殺される側、双方視点に流れる映像だ。殺す側も殺される側の視点をいつの間にか見ていることになる。これはバトロワの特性、そして「サヴァイヴ」の構造をうまく映像で表現していると思う。やるか、やられるか。やる側もやられる側に回る。「奪う側」から「奪われる側」へも回る。奪われる側から奪う側へ回ろうとした相馬光子も結局は奪われる。この構造の中ではそうなってしまう。そしてApexでも参加させられたキャラクターたちが漏らす台詞はその構造をほのめかす。

ゲームではこの構造に参加しない身も蓋もない手段がある。それはプレイヤーに委ねられている。クリックひとつで解決できる。
だが現実世界でその抵抗を示すにはどうすればいいのだろう。
論考で言われているように、どうやって他人に勝つかではなくどうやって問題を解決していくか。論考はサヴァイヴのその後、リビングデッドの問題を予告している。なるほど、と思うと同時に別のしかたとして詩のことを思い浮かべた。

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