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竹生島②

神斎く竹生島。
前回のその続き😊
一度記事が消えた恐怖から保険的に
小まめに投稿していこう。心の安寧🧡のために。

前回のおさらい
①歴史的建造物の波兎は竹生島文様が用いられている可能性。

②月=兎  波(流水)=兎 月=波(流水)であり
 月の光=白波=白兎

③月には不老不死又は若返りの薬を作る兎がいる。

この①についてもう少し深掘りしてみよう。

歴史的建造物は竹生島文様ということを記述したが
もう一つ紹介したい所があって

徳島県美馬市にある白人神社。

ここにも竹生島文様ならぬ波兎が出迎えてくれる。
というよりも兎だらけ🐇
社務所もないし、人影もほぼない神社だが、ここまでの道のりを思えば(川沿いを走ってたどり着く)太古から水の精霊が住んでいるような場所だと私は思った。

白人神社


人面兎みたい
ここにもみっけ。


そして、ここ白人神社。竹生島信仰と縁のある浅井長政との繋がりを見つけてしまった。∑(゚Д゚)
まさかこんなところで!!


美馬私の観光サイトではこう記載されていた。


《白人神社》
1596から1614年(慶長年間)の初め、稲田修理亮によって再興されたといわれ、阿波藩の家老であり脇城主(後に淡路城代となる)であった稲田家の信奉が厚かった神社。


当神社玄関にある「白人大明神」と刻まれた額も稲田主税助植春の奉納したもので、彗雲鉄啀の書になるもの。

《彗雲鉄啀》
この人何者だろう…?

禅宗の僧で、1626(寛永3)年仙台で生まれた。浅井長政の曽孫といわれ、書画に通じ楊柳観音図が著名。

え?曽孫??
浅井家って途絶えたはず。浅井三姉妹はよく知られてるけどその娘の孫⁉️⁉️
だったら豊臣とか、徳川とか京極とかの血筋って名乗る方が格式高くなるよね。敢えて浅井⁉️
むむむ…。
一般的な歴史知識として、浅井長政の嫡男万福丸は10歳にして秀吉によって串刺しにされたとあるが、
もう1人次男がいたとされている。
その名は万菊丸(万寿丸)
この子は生後間もなかったことで難を逃れ、米原市の福田寺にかくまわれ、そこの住職になったと言い伝えが残っている。そうなると曾孫は嫡男の子となる。
小谷城落城後生き延びた男の子。
うん、面白いじゃないか。
この男の子と彗雲鉄啀
どう繋がるか探ってみよう❣️

もう少し彗雲鉄啀について検索してみると…

ここに《鉄崖》という画人が記載されている。

鉄崖(1626-1703)

寛永3年仙台生まれ。禅宗黄檗派の僧。前名は守貞、号は鉄牛。江戸小谷の城主・浅井長政の曾孫とされる。12歳の時に阿波の富田瑞巌寺の慶岳禅師について剃髪、31歳の時に佐古大安寺の住職となった。明暦年間に黄檗木庵の渡来を聞き長崎に行って入門、名を鉄崖と改めた。阿波に戻ってから下八万に唐風の寺竹林院を建てて移った。書画に長じ「楊柳観音図」が残っている。元禄16年、78歳で死去した。

彗雲鉄啀と鉄崖は同一人物ってことね!

鉄崖についても検索すると色々出てきた。
ということは今では浅井長政の子孫がいるのは定着されてきてるってことなんだな!

仙台の東園寺のブログにはこう記載されていた。

《鉄崖》
鉄崖禅師(一六二六~一七〇三)は仙台の人。父は浅井倉之助為政、母は稲田氏。祖父は浅井長政公。父は小谷城落城の際、幼少の為に難を逃れ、仙台伊達忠宗公に仕え、次いで阿波徳島蜂須賀忠英公に仕えたという。寛永十二年阿波瑞巌寺慶岳和尚の許で出家。十七歳で鳥取の龍峯寺提宗の門下となる。鉄牛禅師の法弟。その後諸国歴参。隠元禅師、木庵禅師に師事し、延宝五年五十二歳で木庵禅師の法を嗣ぐ。延宝七年阿波にて藩主の帰依を受けて仏日山竹林院永明寺を開く。元禄十六年遷化。

丙寅とは貞享3年(一六八六)。


ここで出てきた伊達家!
伊達と浅井は狙われる命を加護するほどの縁があったということなのか。
んんんー。あの時代の伊達藩主は伊達輝宗。
伊達輝宗とマブダチ関係は柴田勝家

柴田勝家は織田信長に生涯支えてた人物。

普通ね、敵勢力に対して万福丸の様に処刑するのであればその血筋を引き継ぐ者全てを途絶えさせる処分をすると思う。あの織田信長ならば特に。けど万菊丸は赤ん坊だったから見逃されたという説がある。ここなんだか引っかからないかな。

それにお市が嫁いだ年代があやふやにされてるのも
ここになにか秘めなければならない何かがあるんじゃないかなと勝手に思ってしまう。


むむむ…。
ここからは個人的見解。

もしかするとお市は小谷城落城の際まだ孕ってたんじゃないか?その胎に宿るのは2つの命。双子だったとか。
1人は女の子、もう1人は男の子だった。
それを隠すかの様に落城後のお市とその子達の足取は現在分かっていない。
お市の方は出産されましたと周囲に伝えてても双子だとは当の本人と産婆しか分からない。お市は夫との約束、浅井の血を残す為に自分の子供を守る為にある決断をしたんじゃないか。
そして…乳母にその男の子を連れて柴田勝家への元に行くように命じた。
柴田勝家は織田信長の重臣。
織田家に忠実に支えていた。織田の家系の血を引くお市の方にましてや戦国一の美女に生まれて間もない赤子を護るようにと言われると人情深い勝家は従ったんじゃないだろうか。極内密で。
この出来事を機にお市と勝家は深い繋がりができたんじゃないだろうか。
その後勝家は赤子の保護先として伊達家を選んだ。
伊達家ならば一家・一族の制度がある。血縁関係なくとも服属した有力家中にも格付けし受け入れる制度があった。まだ何も知らない無垢な生き延びた男の子が育つにはうってつけの場所。

伊達輝宗…その後1575年(小谷城落城から約2年後)
織田信長に鷹を献上している。中央政権を担う信長公に誼を通じるのは時の流れにしても普通だと思うがその上に何のご機嫌取りをしているのだろう?
そう私は解釈してしまう。

その後秀吉の時代へ移り…


つづく。



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