再考:あの人が今日も「量産型」を忌み嫌う。

※過去に当サークルのHPで公開された記事です。
(公開日:2018.12.31 執筆者:大脇)

1.曖昧なものさし

 最近、けっこうな頻度で「量産型なんてくそくらえ」や「あの年代はみんな個性的だった」というような言葉を耳にしました。特に気分を害されるわけでもないんですが、こういった言葉にはかなりの違和感を覚えます。

たしかに、この「量産型」と「個性的」という明確な基準のないものさしはなんとなく社会に浸透しており、たしかになんとなく「個性的だなぁ」と思う人は存在します。一方で、自らが「個性的」であることを理由に、やたらと「量産型」に対する嫌悪・嘲笑を示す人もいます。しかし、後者が嫌うはずの「量産型」と後者が言う「個性的」は非常に似通った部分があるように感じます。

今回は、主に後者の「個性的」を取り上げて「量産型」との共通項を考察し、この社会的な意識への違和感の正体をできる限り解き明かしていきたいと思います。

2.あの人が言う「個性的」

「量産型」「個性的」というものさしをもとに他人を見ること自体は特になんの問題もありません。流行や数などに流されず自分の考えや感覚に基づいてものごとを選ぶ人間を個性的であると評価するのは適切です。そして、そういったことを感じ取れる相手こそ個性的な人間と言えるでしょう。つまり、「量産型」「個性的」はあくまで他者への評価軸であり、「量産型」が絶対的に悪くて「個性的」が絶対的に良いと決めつけるものではありません。

問題なのは、他者への評価軸である「量産型」「個性的」を自分を中心にして当てはめる場合です。言い換えれば、自分が「量産型」か「個性的」かを周囲の他者を基準として規定するということです。それだけであればいいのですが、なかには「個性的」な自分をもとめるあまり、「量産型」を忌み嫌い否定する人間がいます。

こういった人は「量産型の他者とは違う自分でありたい」という考えに基づいて、何らかの手法や基準で「自分」を主張・顕示しようとします。ここでは、「量産型」という概念的な規定は「個性的」な自分を脅かす絶対的な悪になります。当然、その「量産型」の規定は自分の周囲に存在する他者によってつくりだされるものであり、嫌悪や嘲笑がその他者へと向かうことになります。その結果、正としての「個性的」と負としての「量産型」を巡る非常に個人的・主観的で不毛な争いが起こることになります。

3.「量産型」との共通項

 このような「個性的」を振りかざす人間は、よく「個性的」であることの優位性を主張します。それはその人の個人的な価値観なので、特にこちらが気にすることはありません。ただし、その「個性的」は個人の主観的なものの見方・考え方であり、あまり他者に同意を求めるものではないと思います。また、そういった「個性的」と忌み嫌うはずの「量産型」のあいだには似ている部分があります。

「量産型」の人間とは、いわば「どこにでもいるような」人間のことです。そういった人間は、流行・数・社会的な評価・周囲の視線など自分以外の要因をもとにしてものごとを選びます(自覚・無自覚に関わらない)。言い換えれば、「量産型」は自分に関するものごと周囲の他者を基準として決定しているということです。

繰り返しになりますが、ここで問題としている「個性的」の特徴は、自分が「量産型」か「個性的」かを周囲の他者を基準として規定しているということでした。このことから、このような「個性的」と「量産型」は、自分に関するものごとの決定・規定の基準が周囲の他者に大きく依存しているという点において共通していると言えます。たしかに、ここでいう「個性的」と「量産型」は、他者と自分を差異化するか同化するかという違いはあります。しかし、どちらも周りの目や評価を気にしてしか生きられないという意味では同じだということです。

4.自己証明のゆくえ

 クローズアップ現代(注1)で取り上げられていたこともあり、少し前に映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見に行きました(Queennファンではありませんが)。映画についてとやかく言うことはしませんが、フレディ・マーキュリーが自分が誰であるかは自分が決めるというようなことを言ったシーンが印象に残りました。この映画はファンである中高年層だけでなく、フレディ・マーキュリーの生きざまに魅せられる若者が多かったことで社会現象となったということですが、このセリフはその理由の一つのように感じました。

先ほどの「どちらも周りの目や評価を気にしてしか生きられない」という文は、文脈的に悪い意味で取られそうですがそういう意味ではありません。受験、資格、学歴、成果など、たしかに現代社会では他人から認められる評価の重要度があがっています。「自分がどうあるか」よりも「自分が他者・組織にとってどうなのか」が問われるため、周りの目や評価が自分に与える影響はとても大きいと思います。つまり、この社会は自分で自分の在り方を選んでいくことが難しい場所であると言えます。

しかし、だからといって「個性的」であることが優位に立つわけではありませんし、そもそも「個性的」は自分が他者を見るときに使う主観的なものさしです。それを自分自身に当てはめて比較対象としての「量産型」を規定し、該当する他者を否定するのはいかがなものかと思います。また、その「個性的」は周囲の他者を基準として自分の属性を規定するものであり、他者に依存するという根本的な部分で「量産型」と共通しています。この2点こそが「量産型なんてくそくらえ」といった言葉、世間に浸透する「量産型」「個性的」のいう意識に対する違和感の正体なのではないでしょうか。

ほんとうに個性的な人は「他者がどうであるか」なんてものをそんなに意識していないと思います。なぜなら「量産型」の他者も時によってその在り方が変わるからです。言い換えれば、「量産型」の他者を否定することで得る「個性的」は、変わりゆく「量産型」をずっと否定し続けなければ保てないということです。苦行ですね。

注1 … NHK「クローズアップ現代+ クイーンは世代を超える!そのわけは?」(2018年12月06日放送)http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4222/index.html (12月31日最終確認)

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