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読むことと積むことを自在に行き来すること-『積読こそが完全な読書術である』 を読んで

友人が本を出した。その名も『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)。
積読とはもちろんあの積読である。買ったはいいものの、本棚の肥やしになっているアレ。
私の背後の棚で「取れ、読め」とにじりにじりと迫ってくるアレ。
通常積読とは、「いやぁ〜あるんだけど"しっかり"読んでないんだよね…」という逃げ口上と後ろめたい気持ちとともに語られる。買ったのに、いや買ったからこそ生じる後ろめたさである。
しかし本書は、その積読こそが完全な読書術だという。
本書では年々増加し続ける出版点数、また本だけでなくインターネットから供給されるコンテンツにより、人はすでに情報の濁流の中にいると説明し、その濁流に飲まれない方法としての積読を提案する。
積読とは、混濁する情報の中で主体的に構築する「ビオトープ」(小さな生態系の場所)なのだという。
以下に本書の概要を記載する。

積読とはなんだろうか

そもそも、本には読まれるものとしての性質と、保存しておかれるものの性質がある。
ジャン=リュック・ナンシーの『思考の取引』(岩波書店)にも、書物とは「閉じと開かれのあいだにあるもの」と表現されている。人はそれを閉じておくこともできるし、開いて読むこともできる。(この両義性は師匠のデリダの思想を思い起こさせる)閉じられて、とっておかれることもまた書物の本質的な側面なのだ。

また一方で、読書という行為は不完全性を伴う。ピエール・バイヤールの『読んでない本いついて堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫)にもあるように、人は本を読んでもその内容を完全に記憶することができないのである。読んでも精々読み手の解釈や記憶に依存した「遮蔽物(スクリーン)としての書物」しか語ることができない。(バイヤールはそのため本の内容よりもその本の系譜や関連書物の間での立ち位置=共有図書館を把握することを推奨する)
完全な、究極の読書を目指せば目指すほど、「実はちゃんと読めてない」というやましさから逃れられないのだ。

そこで、自らの意思で選んだ本たちを、定期的にメンテナンスして、自分だけの積読環境を構築する。
年々カサが増す情報の洪水から逃れて自分だけのポートフォリオを作るのである。
(ビオトープの作り方、本の選び方についてはショーペンハウアーからこんまりまで様々な視点が盛り込まれている)

読書は人間っぽくなくていい

以上が本書の大まかな内容である。(少なくとも、私の遮蔽物(スクリーン)としての書物にはこう書いてある)
もともと、この本の前身となる『サイコパスの読書術 暗闇で本を読む方法』(時間銀行書店)では、この積読読書スタイルのことは「サイコパスの読書術」と呼ばれていた。理想的な読書を拒否し、一方で共有図書館を作るような読書でもない。一般的な読書からはかけ離れた、ある意味で人間性のない読書術とも言えるためである。

サイコパスには良心の呵責がない。積読という読書術でも、理想的な読書ができないからといって頭を抱えることはない。周りの情報など気にぜず利己的に読書環境を作り上げ、飾りと思われている背面の本棚はあなた自身であると言い張って良い。家計簿を見て眉をひくつかせる家族からのプレッシャーをものともせず、本は積んで良い。

書を積めよ、町へ出よう。そしてそこで買った本をまた積むのだ。


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