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自由としがらみ、金木犀の香るコンクリートの街。誰にでもなれたはずの私。

わたしは自由なはずだった。
それなりに安定感のある名の知れたホワイト企業に入り、残業しなくても食いっぱぐれないくらいの給与と小さな贅沢はできるくらいの貯金が貯まり30代を迎えた。

周りから見たらとんでも無く自由だ。
お金もある。
時間もある。
子どもや家庭のしがらみもない。
縛るものはほとんどないのだ。

まるで理想のような30歳だ。

秋の夜、友人とお酒ではしゃぎ遅くなった夜道。
ふと懐かしい音楽が聴きたくなった。金木犀の曲だ。

大学生のときはバンドに明け暮れていた。
自分の背丈くらいあるアンプに楽器を繋ぎ、ベースの弦を思いっきり弾いて好きなだけ音を出していた。
崩れるか崩れないかギリギリのラインまで音を掻き鳴らし好き放題にエフェクターを踏みつける。

ぶわっと思い出されたその光景は、不自由で何も持っていなくて何者かになりたい、必死で世の中を憎んでいた頃の自分だ。
ありったけの感情で音を出し、歪んだ音で社会を踏みつけていた、あの頃。

今だって望んだら弾ける。
あのとき買えなかったエフェクターも背伸びしたお高めのベースもちょっとお金の工面をすれば買えてしまう。
それでも私は弾かないのである。

自由であるはずだ。でも、自分の背丈ほどあるアンプの前に立ち、肌がヒリヒリと凍てつくくらいのどうしようとない感情を抱えることはない。
ない、と言い切れてしまう。

聞いていた曲はラスサビに向けてテンポが上がっていく。

そして甘ったるく切なげに纏わりつく金木犀が、より一層届かぬ思い出を美化していくのだった。




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