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なぜ、教室で「慰安婦」を教えてはいけないのか(22)

ー児童・生徒に慰安婦を教えるのがダメな理由 その4

 連載の(19)(20)で、大谷猛夫・川田文子両氏の慰安婦授業肯定派2名の主張を検討した。どちらも慰安婦を教室で教える理由として納得できるものではなかった。

 じつは2名の主張は「慰安婦」を教えるための理由ではなく、ありもしない「性奴隷」という虚構を教えるための理由になっている。ゆえに、本来は検討する余地もないものであることを付言しておく。

 また(20)で検討した川田文子氏が教えるための事前条件としている「性の基礎的・普遍的知識」に関連して(21)で現在の学習指導要領のうち「性」にかかわる部分を確認した。ここでも付け加えるが川田氏は「性の基礎的・普遍的知識」を事前条件として提案しておきながら、自分からは何も具体的な内容を示していない。学習指導要領は私自身が 「性の基礎的・普遍的知識」と考えているものである。

 では、ここでこれから明らかにすべき課題について整理しておく。
 過去の慰安婦授業や慰安婦をテーマにしたジュニア・ティーン向け書籍を検討した結果、これまでのものはすべて性暴力描写を児童・生徒に垂れ流し、ありもしない「性奴隷」という虚構を教えていたことに大きな問題がある(また、政治的中立という教育基本法の精紳を無視して偏った政治的立場を持ち込みすぎている点にも注意が必要である)。

 では、虚構の「性奴隷」ではなく、「正しい慰安婦の姿」ならば、教室で教えることは許されるのだろうか。
 これが次に明確にすべき課題である。
 結論を先に言えば、上記も許されない。
 なぜか。
 それは、慰安婦は戦地における売春というセックスワーカーだからである。
 慰安婦を教えるためには売春・セックスワークについての知識が必然的に必要になってしまう。
 私は、特別な例外を除いて、売春・セックスワークについての知識を教室で教えるというのはやや常識を欠いた行為であると思う。これは通常の大人・保護者のほとんどの方に首肯してもらえるだろう。ここに面倒な理屈は必要ないほどである。

 だが、ここでは教育論として売春・セックスワークを教室で教えることがなぜ許されないか、の根拠をきちんと明示しておきたい。なぜならば、今後も慰安婦もしくはそれに代わるものが教育現場に無批判に持ち込まれる可能性を否定しきれないからである。

 そこで、まずは「売春・セックスワーク」そのものについて考えるところから始めることにしよう。

6 小浜逸郎「売春(買春)は悪か」を読む①―3つの立場 
 小浜逸郎氏は、その著『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫 2014年 この本は2000年に洋泉社より刊行されたものに加筆・修正したもの)に収められている「売春(買春)は悪か」で売買春についてわかりやすい分析をしている。

 氏によれば売買春の是非については大きく分けて以下の3つの立場があるという。

A:売買春否定・保守派  
B:売買春否定・人権派
C:売買春肯定・自由派

 では、それぞれの派の主張と問題点を見てみよう。

【売買春否定・保守派】
 この立場は、既成の秩序維持が最大の目的で、その根拠となるのが「家族主義的な道徳感覚」や「宗教的、禁欲的な倫理感覚」である。
 だが、この立場は性の秩序が売春という「裏の世界」との「対の構造」で成立していることにあえて目をつぶろうとしている。ゆえにこの対構造の壁を壊してしまう普通の女子高生によるセックスワーク等に対して強い危機を感じている。また「表の家族秩序―裏の売春世界」という対構造を固定化したい気持ちから「公娼制度復活」論を唱える人もいる。
【売買春否定・人権派】
 この立場は、売買春は「性の商品化」「奴隷的な行為」であり、許しがたい人権侵害であるとする。
 だが、この立場は自由意思でセックスワーカーとなっている女性の主体的行動を認めず、自分の人権感覚の満足の為に理念の押し付けとなり、彼女らは「傷ついている」のだ、と「おせっかいな存在規定」を押し付けることになる。また、売買春撲滅という理想主義に陥ることで障害者・老人等の社会的弱者の性の問題の解決には無力である。
【売買春肯定・自由派】
 この立場は、現場のセックスワーカーや買春者等の「個人の自己決定」による自由な売買春を主張する。現在の非合法化の状態こそが陰湿化、暴力団との癒着などの問題を起こしているとする。ゆえに、性労働を正当な労働として認め、売春の合法化による非犯罪化を目指すべきだ主張し、現実の性労働者の権利確立に貢献している面がある。
 だが、現実にはセックスワーカーへの蔑視感や売買春への嫌悪感を簡単に覆すことはできない。蔑視の不当性を訴えるのは間違いではないが、その蔑視構造の根拠を突き止めなければ「真の敵を見くびる」ことになる。
 また「個人の多様性」を土台にした売春の合法化=「性の自由化」は、突き詰めれば結婚や家族の否定につながる。家族の否定は子どもの養育、親子間の愛情等について問題を生じることになる。私たちは固定した性愛関係や嫉妬から無縁ではいられない。

 これは自分自身がそうなのだが、おそらくほとんどの人は【売買春肯定・自由派】の主張に顔をしかめるだろう。そういう意味で、じつは本音は【売買春否定・保守派】の主張にあると思われる。
 しかし、面と向かって売買春についての意見を聞かれれば【売買春否定・人権派】のように売買春は女性(男性)の「性の商品化」であり、売春は「奴隷的な行為」だ、と答えると予想できる。だが、もし【売買春肯定・自由派】である現場セックスワーカーの「主体的」な発言を聞けば、自分がもつ同情的・蔑視的・嫌悪的な目線というのは間違っていることに気づき黙ってしまうかもしれない。

 つまり、売買春の問題は複雑なのである。
 私は小浜氏のこの整理を読んで、売買春をめぐる主張の異同をやっと理解することができた。だが、同時に非常に複雑であることもわかった。しかも、売買春をめぐる本音と建て前は、子どもを相手にする教育の場では無視できない要素として存在する。つまり、あまりにも複雑かつやっかいなものであることがわかるのである。
  
 さてここまで来て、小浜氏は「売春は悪か?」という問いに対する結論を以下のように述べている。

「私は、それが成人した個人と個人の自由な取引として行われる限り、社会的に裁かれるべき悪ではない」(p146)

 「悪か?」と問われればこのように答えるというわけである。
 だが、小浜氏は続けて次のように言う。

「しかしここに、そういったことだけでは済まされない問題がある。それは、先に述べたように、売買春を自ら行う人々も含めて、この行為から、不道徳感、汚辱感を完全に払拭することは不可能だということである」(p146)

 これは教育現場にとって非常に重要なポイントだと思われる。ゆえに、この「不道徳感」「汚辱感」について具体的に考えてみたい。
  
 ここに1995年に行われた「買売春と労働をめぐって」と題する座談会の記録がある(『売る身体/買う身体 セックスワーク論の射程』青弓社 1997年)。
 これは「下館事件タイ三女性を支える会」の有志6名によるものである。下館事件とは1991年に茨城県下館市で人身売買と強制売春の被害者である3人のタイ女性がボスのタイ人女性を殺害し、逃亡先で逮捕された事件である。なお、3人は東京高裁で懲役8年の判決が出ている。 
 この座談会に参加した塩見直子さん(当時 保母・20代)の発言を見てみよう。

「まあ、神秘化っていったら性を神秘化してるのかもしれないけれど、やっぱり自分のなかに男の人が入ってくるってことは、自分にとっては今でもほかの仕事とは違うなって思う」(p252)
「だから、程度の問題かもしれない。いろんな仕事があって、危険度とか満足度とかいろいろあるけど、セックスということを仕事として選ぶのは自分にとってかなりしんどい究極の選択であるような気はするのね」(p253)
「自分にとってのセックスと人がやっている売春の間にすごく乖離があるからだと思う。人がやっているぶんにはべつにいいんだけど、自分がやるとなるといやだと思う、その乖離というのはいったいなんなんだろうと思う」(p254)

 塩見さんは売春の仕事にまつわる危険性を差し引いてもやはり他の仕事とは「違うなって思う」「かなりしんどい究極の選択である」、セックスと売春には「すごく乖離がある」と率直に語っている。これらの発言には売春という行為や仕事に対するある特別な感じが表現されているが、本人が自覚しているかどうかは別として、私にはここに「不道徳感、汚辱感」が含みこまれているように感じる。
 そして、座談会の後半では売春は労働だという点について「なんか一人でクリアしている気持ち」(p270)と言っているものの次のようなやり取りをしている。

塩見「そう。だからあともう一方で残るのは、私の場合、道徳観・倫理観みたいなところ」
橋本「道徳観・倫理観っていうよりは、私は、親対(親対策)とかって言ったほうが・・・」
寺川「それは、自分が周りから受ける眼差しの問題なんじゃない」
塩見「そう、それだと思う」
(中略)
塩見「でも、自分が、じゃあ、やってみるかと思ったらすごい大変だと思うし、なんか気分が悪くなっちゃうし、気も重くなるからさ・・・」

 ここで言う「周りから受ける眼差し」についてもやはり売春という仕事のもつ「不道徳感、汚辱感」がこうした「眼差し」へと結び付いているのは間違いないだろう。

 塩見さんは売春に対して差別感を持っているわけではない。だが、やはり塩見さんのようなセックスワーカーとつながりがあり、自覚的に運動に参加している人でさえ、小浜氏の言うように「不道徳感、汚辱感を完全に払拭することは不可能」なのではないか、と思うのである。
 
 この点をふまえて、小浜氏は問題を以下の2点に絞る。

①そもそも売買春行為に伴う漠然たる道徳的嫌悪感、汚辱感は、何に由来するのか。
②人はなぜ売春(買春)をするのか。

 では、さらに小浜氏の見解を辿ってみよう。


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