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戦争中、中国大陸に木を植えた緑の連隊長・吉松喜三~日本が世界に誇るJミリタリー・教科書が教えない〝戦場〟の道徳(3)

第3回は、戦争中に中国大陸に木を植えて「緑の連隊長」と呼ばれた吉松喜三大佐のエピソードです。

植樹する吉松大佐

 現在行われている、東京オリンピックの会場となっている新国立競技場の愛称は「杜のスタジアム」。スタジアムの外周はスギ木材のひさしになっていて、木材は47都道府県すべてから調達されています。木と森の国である日本にふさわしいナショナルスタジアムだと思います。

 また、NHKで放映中の朝ドラ「おかえりモネ」の主人公・百音が最初に就職したのが福島県・登米市の山林組合です。ここで百音は山と木と森のことを学び、そこから自分の関心が空と海へと広がって気象予報士となる物語です。

 このドラマには「植林」のシーンが出てきますが、「植林」は木材生産を目的にしたものです。対して「植樹」は同じく木を植えることですが「山をよみがえらせる」ことが大きな目的になっているようです。

 じつは戦争まっただ中の中国大陸でこの「植樹」を継続していた日本軍部隊がありました。吉松喜三大佐を連隊長とする機動歩兵第三連隊です。「緑の連隊長」と呼ばれた吉松さんの奇跡のようなエピソードをぜひ子どもたちに教えてほしいものです。

 この教材の授業を受けた子どもの感想をご紹介します。

「緑の木々の力はとてつもない力があるとは知っていたけど、戦争中でもその力が発揮されていたということに驚いた。敵も味方もなく口授に植樹を続けていた吉松さんに感動した」
「戦争が終わってもまだ植樹を続けていたのは国のために死んでしまった人たちへの感謝の気持ちを伝えたかったからだと思います」

◇エピソード  中国大陸に木を植えた緑の連隊長・吉松喜三大佐     ◇靖国の「青」と「立」                                                                                  ◇参考文献等

◇エピソード  中国大陸に木を植えた緑の連隊長・吉松喜三大佐

 1937(昭和12)年に、8年間にわたり日本と中国が戦火を交える日中戦争が始まりました。吉松喜三大佐は、この日中戦争で勇名をはせた機動歩兵第三連隊の連隊長です。

 中国大陸に派遣された翌年の1940年(昭和15)年、吉松大佐は重傷を負い、キリスト教の教会を利用した野戦病院に入院しました。病床で、吉松さんの心に浮かんできたのは戦死した仲間たちの顔でした。ある日ふと外を見ると、教会の人たちが緑の木立の中で賛美歌を歌っています。このとき、吉松大佐にある考えが浮かびました。

「緑の木こそ人の心をやすらかにする。幸い私は生き残ることができた。戦争は破壊だけではない。日本軍の通るあとは草木も枯れる、などと言われるような人の道に反したことはしたくない。戦場で亡くなった人たちの魂は樹木に宿る。これからは慰霊(死んだ人の霊をなぐさめ、やすらかに眠ってもらう)のために敵味方を越えて中国の大地に木を植えて緑をふやそう。」
              
 ケガが治り、部隊に戻った大佐は、戦争のまっただ中に植樹をすすめる命令を部下に出しました。自然の豊かな日本とちがい、戦場となった中国大陸の奥地は砂と黄色い土ばかりの大地です。日本式の農法は役に立ちません。兵隊たちは木を一本植えるにも悪戦苦闘しながら、三千本の植樹を行いました。

 翌年の春、明るい日差しの中に苗木から若葉が芽吹きました。これを発見した時には連隊全体に喜びがあふれ、みんな口々に「ばんざい!」を叫びました。その後も吉松大佐は植樹を続けました。部隊が通りすぎた後には、必ず木を植え、花を咲かせ、緑の木陰を作ることにつとめたのです。兵隊はこれを誇りに思い、「興亜植樹の歌」を作曲しました。                         
 

 雪に嵐に打ち勝ちて 四方にひろがる深緑 西風いかにすさぶとも われに平和の木陰あり

 日本軍が進むところ、緑の木々が広がり、自然がよみがえりました。ある村を通りかかったとき、村人はみな吉松大佐の部隊を警戒していましたが、隊員たちがこの歌を中国語で歌うと安心してお茶などを用意して飲ませてくれました。             

 ホウトウという地区では、中国人のために公園を作り、子どもたちのために小さな動物園まで作りました。街路には桜やポプラの並木ができました。兵隊はせっせと水をまき、住民と協力して町作りにはげみ、砂漠の町は緑の町に変わったのです。                                                   

 そして、夕暮れ時にはここが戦場かと思われるほど明るく静かな明かりにつつまれるようになっていました。仲間の一人は、その後の激しい戦闘の中でそのホウトウの明かりを思い出し「ああ、灯が見える」とつぶやいて息を引き取りました。緑の木々が兵隊たちを戦争の恐怖から救っていたのです。

 こうして終戦までに続いた植樹はなんと400万本にも及んでいました。           
 吉松大佐の思いは、敵である中国のリーダーも感動させるものでした。戦争に負け、中国大陸で捕虜としてすごしていた吉松大佐のもとに、なんと敵の中国から感謝状が贈られてきたのです。       

 戦争が終わった後も、吉松大佐は植樹を続けました。戦死者の魂が眠る東京の靖国神社に朝早く出向き、境内にある大イチョウの木のぎんなんを拾いました。こんどは手伝ってくれる部下はいません。たった一人で、来る日も来る日もぎんなんを拾い続け、それを苗木にまで育てたのです。この苗木は大切に日本の各地へ送られていきました。やがて、この植樹は沖縄、ベトナムのサイゴン市、そしてなつかしい中国のホウトウへと広がっていきました。                   

「落ちているひとつひとつの実に、国のために死んだ人たちの魂が宿っているような気がしてきた。この実を育てたらその木にその人たちの魂が戻ってきてくれるのではないだろか。」

 そして、戦争が終わって17年後。吉松大佐のもとに、中国から一通の手紙が届きました。その手紙にはこう書かれてありました。       

 「あなたの植えた木が六メートルほどに伸び、青々と茂っています。私たちの友好がいくつもの山を越え、心と心がつながり、世界平和が実現されますように。」                       
 

 吉松大佐は、手紙を握りしめながら泣きました。戦争が終わってはじめて流した涙でした。   

 こうして吉松大佐の育てた苗木は日本はもとより世界中に広まりました。ドイツ海軍は靖国神社に参拝した時に吉松大佐が育てたイチョウの苗木3本をもらいうけ、キール軍港の慰霊塔の横に植えました。いま、キールのイチョウは大きく育ち、その傍らにある碑には日本語とドイツ語でそのいわれが刻まれています。さらに、ドイツはこのイチョウの木のお返しとしてカシの木3本を日本に贈ってくれました。このカシの木は靖国神社に植えられています。 

ドイツから贈られて樫の木

※関連する道徳の徳目「生命の尊さ」「自然愛護」または「感動、畏敬の念」

◇ 靖国の「青」と「立」

 吉松さんは生前にいつもこう語っていたそうです。

「緑こそ人の心を安からにする。靖国という字は青を立てて国を安からにするという意味です」(Amebaブログ さくらの花びらの「日本人よ誇りを持とう」より)

 靖国神社へお参りの際は、ぜひこの言葉を思い出してください。周囲の木々の色も香りもいつもと違って感じることができるかもしれません。

◇参考文献等

*Amebaブログ「さくらの花びらの「日本人よ誇りを持とう」」

*HP「戦争時の日本人の真心を知れ!」 

*斉藤吉久「緑の連隊長」『神社新報』(平成10年10月12日号)

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