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マイナス30度の極寒!2万人のユダヤ人を救った樋口季一郎~日本が世界に誇るJミリタリー・教科書が教えない〝戦場〟の道徳(2)

 第2回は、極寒の地で助けを求める2万人のユダヤ人を救った樋口季一郎のエピソードです。

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 ユダヤ人を救った日本人といえば「命のビザ」の杉原千畝の名前が浮かびますが、樋口季一郎の名も忘れてはいけないと思います。人種差別を許さない正義と民族を超えた友情を感じることのできるエピソードです。

「正しいこと悪いことの区別をしっかりつけて正義をつらぬく大切さがよくわかった」
「どんなことがあっても正しいことをする、そんな人に私はなりたいと思った」
「ユダヤ人を救ったそのお礼にユダヤ人に救われたというのがすごい」

 上記は樋口季一郎の道徳授業を受けた子どもたちの感想の一部です。ユダヤ人と親交を重ね、さらにユダヤ人と対立関係にあったロシア人との関係にも腐心していた樋口の偉業はたいへん大きなものであると言えます(なお紙幅の関係上、下記資料ではユダヤ人とロシア人の対立とその解消の話は省略しています)。

◇エピソード 2万人のユダヤ人を救った樋口季一郎 
◇スギハラは有名なのに・・・
◇参考文献等

◇エピソード 2万人のユダヤ人を救った樋口季一郎

 1933(昭和8)年、日本から遠く離れたドイツではヒトラーをリーダーとするナチス党が政治を動かすようになりました。
ヒトラーは反ユダヤ政策を取りはじめ、ユダヤ人はナチスから迫害を受けるようになりました。迫害は年を追うごとにひどくなり、ユダヤ人1万人を国内から追放したり、襲撃する事件が起きるようになりました。       

 ユダヤ人たちは、ドイツ領土を脱出して自分たちを受け入れてくれる国を探しましたが、ヨーロッパにそのような国はありませんでした。そこで、ユダヤ人はアジアをめざすようになりました。その目的地の一つが満州でした。満州まで行けば、そこから船に乗って日本やアメリカに逃げることも可能だからです。満州は今の中国東北部です。ここには昭和のはじめにすでに20万人の日本人が住んでいて、その日本人と南満州鉄道を警備するために日本軍が派遣されていました。                             

 ある日、満州のハルビン市で特務機関長をしていた樋口季一郎少将は、医者をしながらハルビンのユダヤ人協会会長を務めるカウフマン博士にある相談をもちかけられていまし
た。

「樋口さんもすでにご存じのことと思いますが、ナチス・ドイツではユダヤ人の財産を没収して国外退去させたり、収容所に強制的に入れられたりしています。あの有名な物理学者・アインシュタイン博士も追放された一人です。私は同じユダヤ人として黙ってはいられません。ナチスの非道ぶりを全世界に訴えたいのです。その手はじめにこのハルビンで極東ユダヤ人大会を開催したいと考えています。お力をお貸し下さい」        

 樋口少将は悩みました。当時の日本は対立していたアメリカ・イギリスに対抗するためにドイツと同盟関係を結んでいました。もし、ユダヤ人の味方をすればあのヒトラーに反抗することになってしまいます。                     

 樋口少将は悩んだすえに答えました。                      

「やりましょう。あなたの叫びを全世界の人々に聞いてもらいしょう。いまこそ、ユダヤ人がひとつになって立ち上がるべきです。私もおよばずながら力になりますよ」    

 こうして行われた第1回極東ユダヤ人大会は東京・上海・香港からも人が集まり、大成功でした。また、大会には樋口少将も招待されて演説し、会場は大きな拍手と歓声につつまれました。それから2ヶ月後、重大事件が起こりました。                  

 満州と国境を接したソビエト領のオトポール駅でナチスの手をのがれてきた約2万人のユダヤ人が吹雪の中で立ち往生しているというです。このオトポール駅はヨーロッパとつながるシベリア鉄道のアジア側終点です。食糧はすでにつき、飢えと寒さで凍死するものがではじめています。なにしろ、このあたりの気温は3月でも-30℃の極寒なのです。それにしてもなぜ満州国はユダヤ人を入れようとしないのでしょう。

 満州国を作ったのは日本、その日本とドイツは同盟国です。ここでユダヤ人を満州国へ入れるとドイツ側から抗議を受けて立場が悪くなるからです。            

 すぐにあのカウフマン博士もやって来ました。
「樋口さん!助けてもらえませんか」                   
 樋口少将はさらに迷いました。                         
 このままにしておいたらたいへんなことになる、すぐに救出してあげたい。しかし、一軍人にすぎない私にどれほどの権限があるというのか。やろうと思えばできないことはないが、勝手なことをすればどうなるか・・・。                   
 悩みに悩み、樋口少将は決断しました。                     

「博士!承知しました。ユダヤ人難民を助けましょう。だれがなんというと、私が引き受けます。博士は難民の受け入れ準備に取りかかってください」                                                     

 樋口少将はすぐさま南満州鉄道に連絡して2万人を救うための特別列車を運行させ、その2日後、特別列車の第一陣がついにハルビン駅に到着しました。列車がホームにすべりこむと、どよめきの声が広がり、列車が停止すると救護班の医者がまっさきに車内にとびこみました。病人や凍傷で歩けなくなった人たちがつぎつぎにタンカで運びだされます。もし、救援があと1日遅れていたらこの程度の犠牲者ではすまなかったでしょう。                                    

 ホームのあちこちで肩を抱き合い、泣き崩れるユダヤ人たち。小さな子どもたちもミルクの入ったビンを見ると、オイオイ泣き出しました。                
「よかった。ほんとうによかった」       
 カウフマン博士の顔も涙でぬれていました。助かったユダヤ人たちはほとんどが船でアメリカへ渡り、残りの人たちはこのハルビンの開拓農民として暮らしていくことになりました。                 

 それから、5ヶ月後。樋口少将は転勤のため、ハルビンを去ることになりました。樋口少将がハルビンを去る日の駅には、二千人近い群衆が集まりました。その中には遠く数十キロの奥地から馬車をとばして駆けつけた開拓農民のユダヤ人もまじっています。樋口少将の乗った列車が動き出しました。群衆は改札口をのりこえてホームにあふれ出し「ヒグチ!バンザイ!」の声がいつまでも響いていました。 

 その後の戦争でソビエト軍を撃退した樋口季一郎は、ソビエトに恨まれ、戦争が終わった後、あらぬ疑いをかけられて戦争犯罪人として裁判にかけられそうになりました。しかし、これを救ったのはユダヤ人たちでした。                    

「命の恩人であるヒグチを救え!」「ヒグチに恩を返すのはいまだ!」          

 世界ユダヤ協会は、世界中のユダヤ人に連絡してアメリカ国防省に働きかけ、樋口を救いました。                                   

 現在、ユダヤ人の国・イスラエルのエルサレムの丘には<ゴールデン・ブック>が置かれています。これにはユダヤ人に対する偉業をなした人の名前が記録されています。ここに日本人・樋口季一郎の名前が刻まれています。

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※関連する道徳の徳目「正義、誠実」または「希望と勇気、努力と強い意志」

◇スギハラは有名なのに・・・

冒頭でも紹介した「命のビザ」の杉原千畝はすっかり有名になりました。映画化もされています。しかし、樋口季一郎の名は知らない人が多いのではないかと思います。これはなぜなのでしょうか。袴田茂樹氏は次のように言っています。

「私たちは、同じように日独関係の政局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人の樋口についてはあまり知らない。それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。ビロビジャンのユダヤ教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満州の樋口は知らない。露でも「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ」

ビロビジャンとはロシア・ハバロフスクに近いユダヤ自治州です。袴田氏はここなら地元なので樋口のことを知っているに違いないと思ったのでしょう。なお、このエピソード資料では救出したユダヤ人の数を「2万」としましたが、それは誇張で「数千」が正しいという意見もあることを申し添えておきます。

 ちなみにイスラエル・エルサレムの丘にあるゴールデンブックとはユダヤ人の中で傑出した業績を残した人の名前が記されるものです。また、シルバーブックというものもあるそうで、これにはユダヤ人のために尽力したユダヤ人以外の外国人が記されるのだそうです。そうすると、樋口はシルバーブックに記されるはずで、そう書いている資料もあります。しかし、ユダヤ人でなくとも例外的にゴールデンブックに記される外国人もいるらしく、樋口はゴールデンブックに記されているという資料もあります。他にゴールデンブックの碑というものもあるらしく・・・。申し訳ないのですが、これ以上は私にはわかりませんでした。

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<参考文献等>

*相良俊輔『流氷の海 ある軍司令官の決断』(光人社NF文庫 1994年)

*袴田茂樹「杉原千畝は有名なのに・・・樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか」(産経新聞 2017年9月26日「正論」)

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