通州事件を描いた〝日本のゲルニカ〟・朝井閑右衛門「通州の救援」~戦争画よ!教室でよみがえれ㉖
戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ
(6)通州事件を描いた〝日本のゲルニカ〟・朝井閑右衛門「通州の救援」ー戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究⑦
まずはこの絵をご覧頂きたい。
あのピカソが描いた絵画史上に名高い『ゲルニカ』である。
1936年、ピカソの祖国・スペインでは共和国政府軍とフランコ将軍率いる反乱軍による内戦が勃発。そして、1937年4月26日に反乱軍を支持するドイツ軍が北部バスク地方の都市ゲルニカを爆撃した。初めて本格的に焼夷弾が使用され、一般市民を狙った史上初の無差別爆撃と言われている。
祖国スペインの人々が虐殺されたことを知ったピカソは、わずか1か月余りで大作『ゲルニカ』を描き上げた。
「自分の故郷が脅かされ、人々の自由が奪われていると聞くと、もともと人間とは自由に生きるものだと信じていたピカソは、激しい怒りを感じ、愛国心に燃えた」(岡部昌幸『ピカソの「正しい」鑑賞法』青春出版社 p176)
「ピカソはそれまで斬新極まる作風の絵を描いてきたので、モダニズムの代表者のように思われてきたが、このような民族的発想を示すことによって、従来の批評を完全にくつがえし、その前衛的芸術が意外に強い民族的な根をもっていることを人々に認めさせた」(瀬木慎一『ピカソ』集英社新書 p106)
ここでもう一枚別の絵を見て欲しい。
これは朝井閑右衛門が通州事件を描いた『通州の救援』である。私はこれを密かに〝日本のゲルニカ〟と呼んでいる。
通州事件とは1937年7月29日に中国河北省・通州で起きた日本人虐殺事件である。親日地方政権の首都・通州で日本人を守るべき立場にあった中国人保安隊が日本人225名と日本軍守備隊32名の計257名を猟奇的に殺害した。事件発生時、日本側の警備隊は163名。対して中国人保安隊は約3000名だった。この中国人保安隊が29日の午前3時に突然、日本人のみを襲い始めたのである。
惨劇の中を逃げ延びた日本人の一人、梨本祐平氏は次のように述べている(カッコ内は引用者による注)。
「近水楼(日本人経営の割烹・旅館)は目も当てられぬほどの惨状を呈していた。窓ガラスという窓ガラスは一切残らず壊され、その破片はあたり一面に飛び散り、廊下には死体が転がり、血はどす黒くねばりついている。昨夜、私たちが集まっていた大広間に一歩足を踏み入れると、もう死臭がぷーんと鼻につく(梨本氏は前日に宿泊。その晩に事件が発生しそこから脱出。翌朝、近所のドラム缶が爆発しその音を聞いた中国人保安隊が退去して氏は助かった)。宮脇賢之助氏も射殺され、胸や顔一面に血が流れている。女中さんたちはさんざんに暴行されたらしく、ふくよかな白い股をむき出しにして倒れている。思わず目をそむけずにはいられなかった。壁には血痕の手形がありありとついて、その下に若い女が倒れている。死んでも赤ん坊を守ろうとする母親の姿であった」(藤岡信勝・三浦小太郎編著『通州事件 日本人はなぜ虐殺されたのか』勉誠出版 p147~148)
通州事件はあの東京裁判でも審議されている。その時の証言の一部を見てみよう。どちらも事件後に現地に入った部隊によるものである。
通州第二連隊歩兵砲中隊長代理・桂鎮雄氏(7月31日通州到着)の証言
「この近水楼の近くにあるカフェーに行ってみると、縄で絞殺されて素っ裸にされた女性数名の屍体があり、それはそこらあたりを縄で引きづり屍体を引きづった跡がはっきり残っており、残酷という言葉も通用しない世界を知らされました。このカフェーの裏側に日本人の家がありましたが、親子二人が惨殺されていました。子供は手の指を揃えて切断されておりました」(藤岡信勝編著『通州事件 目撃者の証言』自由社ブックレット5 p47~48)
支那駐屯歩兵第二連隊小隊長・桜井文雄氏(7月30日通州到着)の証言
「「日本人はいないか」と連呼しながら各戸毎に調査して行くと、牛のように鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体がそこここのゴミ箱の中や壕の中から次々に出て来ました。或る飲食店では一家ことごとく首と両手を切断されて捨てられている屍体が無惨でした。女性という女性は十四、五才以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかったです」(同p48)
当時の国内各新聞社は号外で通州の惨劇を一斉に報じ、国民世論は激高した。当然、朝井も新聞を読んだはずである。なお、この事件はアメリカにも報道され、アメリカ人ジャーナリストのF・V・ウィリアムズは「日本人の友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」と書いている。
では、絵を見てみよう。
この絵は大きく2つに分けられる。色彩豊かに描かれた中心の三角形の構図とその両サイドのモノクロ場面である。
前者は「幼児を抱く母親」とその左隣の「背を向けた兵士」を頂点としてほぼ二等辺三角形になるように構図が取られ、白、茶、青、赤等で描かれている。対して三角形から外れた両サイドはモノクロームで描かれていて2つは対象的である。なお「背を向けた兵士」が手を伸ばしたその先には空中を泳ぐように黒髪をなびかせた女性が走っている。
まず両サイドのモノクロ場面から確認してみる。
左には影に隠れて呆然としている兵士、右には石膏像のように硬質な感じがする3人の人物が描かれている。どれも眼に精彩ががなくこの世のものとは思えない。これらモノクロームの世界に描かれた人物はすでに虐殺された同胞なのではないか、と思わせる。
次は三角形の構図を下段から見てみよう。
ここには男性が傷つき倒れている。兵士もいるが民間人もいる。瀕死の状態にある者を軽傷の男たちが背負い、抱きかかえてなんとかここまで連れてきたようだ。右端の帽子を被った兵士は右から来る敵から守ろうとするように右手を伸ばして庇おうとしている。左の包帯を巻いた手にすがる男性も青い服を着た女性も同じように右側を警戒し不安そうな表情である。青い服の女性は目の前の赤い格子模様の服を着た幼女を守ろうとしている。この子の母親なのだろうか。
三角形の構図をさらに上へと上ってみよう。
そこに毅然として幼児を抱いた母親の姿がある。その顔には不安を乗り越えて諦観したような表情が読みとれる。きっとこの絶体絶命の状況でも同胞を助けてくれる日本軍の兵隊さんたちの到着を信じているのであろう。その証拠に母親の傍らには白地に赤い日の丸がはためいている。これは単なる旗というモノを描いているのではない。絶対に国民を見捨てることはないという日本と日本軍への信頼感を表現しているのである。
では、頂点の先にいるあの空中を走る女性は何なのだろう。
背を向けた兵士はこの女性を見送るように手を挙げている。この兵士は絶望的な状況の中で友軍の到来を待っているに違いない。私にはそのかすかな希望をこの走る女性に込めているように思える。
この走る女性を見ていて、私はピカソが1922年に描いた『海辺を走る二人の女』が思い浮かんだ。白い服、後方に流れる黒髪、力強く振り上げた両手、女性にしてはたくましいその腕の描写など共通点が多い(朝井はどこかでこの絵を見ていたのではないだろうか?)。
朝井は通州の惨劇を知って激怒したに違いない。ピカソと同じである。彼もまた強い「愛国心に燃え」「民族的な根をもって」この絵をを描いたのだろう。
アンソニー・ブラントは『ゲルニカ』には「古典的な芸術の長い伝統」の「一つの側面」が表れているとして次のように言う。
「この絵の基本的な構想でさえ過去と結びつかないわけではない。『ゲルニカ』を「嬰児虐殺」ースペイン内戦の嬰児虐待ーとして記述することもできなくはない。おそらくピカソはこのテーマを扱った絵の長い歴史を意識しつつ、死んだ赤子を抱く母親という群像を悲劇的情況を伝達する主要な手段として選んだのであろう」(アンソニー・ブラント著 荒井信一訳『ピカソ<ゲルニカ>の誕生』みすず書房 p50)
嬰児虐待(幼児虐待)とは「マタイによる福音書」第2章16~18節に記されたユダヤのヘロデ王による幼児皆殺しの場面である。オックスフォード西洋美術辞典によれば、この題材は5世紀にはローマのモザイク壁画や南仏にある石棺浮彫に描かれていているが、ブラントは『ゲルニカ』の表現は「十六、七世紀の『虐殺』図にみられるものと密接に関連している」と述べ、下のクイド・レニ(1611年)の作品を「いくつかの点でもっとも似ている」としている。
だが、私はこのレニの絵を見た時、むしろ朝井の描いた『通州の救援』の方がよっぽど関連性が高いと感じた。惨殺の中に座り込む人、倒れている幼児、わが子を抱く母親ーその描かれ方は『通州の救援』そのままではないか。そして左上の空中に浮かぶ天使はあの空を走る黒髪の女性のモデルとしか思えない。他の作品も見てみよう。
これはセバスチャン・ブルドン(1616~17)の作品である。朝井の画面中心の三角形の構図と両サイドのモノクロームはこれがヒントではないと思われるほど似ている。
ピカソも朝井閑右衛門もヘロデ王の「虐殺」と並ぶ悪行として描くことを目的としていたと言えるかもしれない。しかし、朝井の絵は過去の西洋の虐殺図と明らかに違う点がある。西洋の嬰児虐待の絵には目を覆いたくなるような残酷な場面が描かれているが(下のピーテル・ハウル・ルーベンスの作品参照 1611~12年)、この『通州の救援』には虐殺場面がダイレクトには描き込まれていないという点である。
『通州の救援』の制作は残酷な虐殺事件がその動機になっているのは間違いないが、朝井は虐殺そのものをテーマにすることを慎重に避けている。そしてテーマを「救援」へと昇華させている。もしこの絵に惨たらしい場面が描かれていたら日本人の中国人への復讐心はさらに広く深く後世まで残っただろう。私はここに日本人のもつ残酷になり切れない弱さと同時に思慮深い性質と深い人間的な判断が見えるような気がする。
朝井閑右衛門(本名:浅井實)のこの絵は1937年の第1回新文展(新文部省美術展覧会)で入選している(その前年の文展(文部省美術展覧会)において彼の代表作となった『丘の上』が最高賞の文部大臣賞を受賞し一躍画壇の注目を集めていた。不思議な魅力のある絵である)。
当時、『通州の救援』は「大画面に日本人らしからぬ構想表現」と評価される一方「あて込み主義の制作態度」と主題選択を批判されるなど賛否が相半ばしたという(丹尾安典・河田明久『イメージのなかの戦争』岩波近代日本の美術1 p58~60)。
上記の『イメージのなかの戦争』に引用されている針生一郎氏によればこの絵は「戦争画の発端」であり「在留邦人の中国人による虐殺のデマゴーグ」を「整然たる古典的構図にまとめた」のだと言う。
「戦争画の発端」や「整然たる古典的構図」は針生氏個人の見解だが通州事件を「デマゴーグ」(本来は大衆扇動者のことだがここでは虚偽情報を流して人を扇動する様をいうデマゴギーの意味で使われている)というのはすでに見てきたように完全に「デマ」である。あらゆる証拠の揃った歴史的事実を無視して無かったことにするその態度は研究者として許されるものではない(針生氏はすでに亡くなっている)。
しかし、さらに問題なのはこの針生氏の間違いを前提にして『通州の救援』を論評する丹尾・河田の両氏の美術研究者としての態度である。両氏のこの絵に対する論評点は以下の4点だ。
①朝井は現地に赴いていないのでこの作品は「絵それごと」である。
②ジェリコー・ミケランジェロ・レンブラント等からの形態上の引用があるようだが絵の主題とはかかわりがない。
③虐殺の「常套表現」以外のモチーフは「日本兵」だがそこには「被害」しか表現されていないので「彼らをさいなんだものが中国兵なのか自然災害なのかも題名によらねばわからない」
④「描くべき敵の姿が朝井には明確でなかった」「朝井が目下の戦争についてどこかしら自然災害じみた印象をいだいていたということ」である。
①の「現地に赴いていない」ので「絵そらごと」だというならパリを離れずに描いたピカソの『ゲルニカ』も絵空事である。そもそも絵画はその名の通り絵空事であろう。だからこそ人は美術作品に魅力を感じるのではないのか?
②の西洋美術の巨匠からの「形態上の引用」が事実かどうかは朝井本人に聞かなければわからない(私は「嬰児虐待」図との関係を感じたが)。しかし、表現と主題が無関係なんてあり得るのだろうか?それは美術そのものの否定ではないか。
③「被害」しか描かれていない理由についての私の見解はすでに書いた。そこには日本人らしい弱さと思慮深さと人間的な判断があると考えている。そもそも、絵そのものの表現だけでなく幅広く周辺をリサーチして「見えないがそこに込められているもの」を読み解くのが美術評論というものではないのか?『ゲルニカ』だって題名がなければ、誰が加害者で誰が被害者かわからないし、スペイン内戦の概要を知らなければ作者ピカソの想いもわからない。
④「描くべき敵の姿が朝井には明確でなかった」のではない。敵が中国人であることは明確だったが朝井はあえて明確にしなかったのである。また「朝井が目下の戦争についてどこかしら自然災害じみた印象をいだいていた」という推測は、事実を調べずにお粗末な感性だけで書く「平和ボケ」戦後知識人の典型的な勘違いである(なお通州事件は「戦争」ではない)。戦前・戦中を生きた日本人である朝井は日本軍が在留日本人を守るためにテロと戦火の渦巻く中国大陸にいることを理解していた。だからこそ『救援』なのである。
ただし、朝井はこれほど残虐な事件の報道に接しても中国人を心底憎めなかったのかもしれない。その「弱さ」がこの絵の主題に隙を作り、迫力を欠いてしまったと論評される可能性はあるだろう。
ちなみに、朝井はこの2年後の1939年に松井石根陸軍大将を描いた『楊家宅望楼上の松井最高指揮官』、さらに翌年には汪兆銘の肖像画を描いている。
ご存じのように松井石根は孫文や蒋介石と親交があり、日中の提携を第一とする大亜細亜主義の考えを持っていた。南京戦では司令官として略奪や不法行為を厳罰に処したのは有名である。汪兆銘は国民党の実力者だったが、蒋介石との路線対立から新しい国民政府を立ち上げて日本との和平のために尽力していた。
朝井閑右衛門は『通州の救援』を描いた後に日中提携の「主役」ともいえる二人の肖像画を描いていたのである。
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