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シベリア強制労働の黒い塊・香月泰男「運ぶ人」~戦争画よ!教室でよみがえれ㉚

戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
 目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ 

(6)シベリア強制労働の黒い塊・香月泰男「運ぶ人」ー戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究⑪

香月泰男「運ぶ人」

 「これはいったい何なのだ?」ー初めてこの絵を見た時の衝撃は忘れられない。

 そこにあるのは楕円形の黒い塊。真ん中やや左寄りに亡霊のような顔が浮かぶ。さらに異様なのは二本の足がにょっきと出ていること。全体のバランスがあまりにも不安定すぎて、見ているこちらもグラグラしてくる。

 まるで妖怪のような黒い塊

 ータイトルは『運ぶ人』。ソ連によるシベリア拉致・強制労働を描いた香月泰男のシベリアシリーズの1枚である。

 私はこのタイトルを見て、そうか・・・と重い荷物を背負う人の姿がイメージできた。不安定な黒い塊に強制労働の過酷さが見える。そして、その亡霊のような顔に人間的な感情を消された抑留生活の姿が想像される。

 香月自身の解説を見てみよう。

「ブラゴエシチェンスクにおける抑留生活の第一歩は、三日間の荷役作業で始まった。船着き場から引き込み線の貨車まで6キロ、コーリャンをつめた麻袋や豆かすをかついで、暗いみぞれの降る道を歩いた。空腹の身にはひどくこたえた。凍りついた路面に足でもとられたら、たちまちひっくりかえって、再び起きあがれないかも知れぬ。だから、そろりそろりと、二時間も三時間もかかって慎重に歩いた。たとえ戦友が倒れても、助け起こすどころではない、我が身を守るのが精いっぱいであった。つきつめてゆけば、人間が麻袋を運んでいるのではなく、麻袋が人間に運ばせているという感じだ。運ぶ人間ではなく、運搬機械と化した奴隷だった」(『香月泰男シベリア画文集』山口県立美術館監修 中国新聞社発行 p54~55)

 終戦直後の1945年8月23日。ソ連のスターリンは「シベリア環境下での労働に適した日本軍捕虜50万人を選別してソ連各地の作業現場に移送せよ」という秘密通達を送った。これはもちろん国際法違反である。実際にはこの通達を上回る63万9千人がシベリアへ送られ、約1割の6万2千人が厳寒と劣悪な環境で飢え・寒さ・病気・射殺により死亡している。この非道な拉致・強制労働は最長で1956年まで続いた。

 ある資料によれば、シベリアの冬は零下40~70度。「スプーンやスコップなどの金物にうっかり素肌が触れてしまうと、それは皮膚にくっついて離れなくなる。防寒帽のひさしがこげるほど火に近づいても、暖かさを感じるのはお腹だけで、背中は氷の柱を背負って立っているようである」という。また食事は黒パン1日350g(ソ連人は1kg)などと決められてはいたが「ソ連側の不正横流しなどもあり、定量通りの供給はほとんどなかった」。(美原紀華・永井泰子『きみにありがとう』グラフ社 p116~117)

 香月のシベリアシリーズ他作品も見てみよう。

香月泰男「北へ西へ」

 タイトルは『北へ西へ』

 終戦時、香月は鴨緑江沿岸・安東でソ連軍に武装解除される。貨車に乗せられていったん満州・奉天へ戻され、そこから再び貨車に乗せられる。

「(前略)虜囚の貨車は、相変わらずぎゅう詰めの状態で、行方もわからず、来る日も来る日も北へ走りつづけた。(中略)それでも時折脱走をはかる者があるらしく、機関銃の響きやソ連兵の叫ぶ声を聞くことがあった。列車が北上するにつれて、それもなくなった。アムール河を渡り、シベリア鉄道に乗った翌朝、ふと見ると、太陽が列車の後方からのぼっている。我々は疑いもなく西へ向かっている。もはや完全に帰国の望みは断ち切られた」(前掲『香月泰男シベリア画文集』p46~47)

 スターリンの北海道占領計画をご存じだろうか。1945年8月9日にワシリエフスキー極東方面軍司令官に「北海道の釧路と留萌を結ぶラインから北の部分を占領せよ」と秘密指令を与えていたのである。しかし、アメリカの強い反発でこの計画を断念している。もしソ連軍が北海道に上陸していたら日本は朝鮮半島のように分断されていただろう。この後、狡猾で残忍なスターリンはアメリカに計画を拒絶された腹いせに日本軍捕虜の拉致に踏み切ったと言われている。(名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書 p198~205)

香月泰男「復員・タラップ」

 タイトルは『復員<タラップ>』

 香月は2年後の1947年5月21日に故国・日本へ戻ることができた(絵の中に1947の数字が見える)。香月は運がいい方なのだろうか。生きて帰ることができた喜びはこの絵には見られない。3日後に家族の住む生家へ戻ると親友宛に手紙を書いている。その書き出しは「拝啓 日本は美しい国でありました」であったという。

「(前略)ゆれるタラップを踏みしめ、港に集まる人々を見た時、ふと自分が亡霊のように思えた。自分の前の男も、後の男も亡霊なような気がした。なぜだろうか。自分が亡霊というより、背中に亡霊を背負っている感じだったかもしれない。セーヤで死んだ30人あまりの仲間の亡霊が、いっしょにこの船に乗って、帰って来たのかもしれない」(前掲『香月泰男シベリア画文集』p114~115)

 ふつうはシベリア「抑留」という言葉を使う。これは「その場に押さえとどめる」という意味だ。この言葉は間違いではないかもしれないが、正確ではない。日本軍捕虜(民間人も含む)は自らの意思でシベリアに労働をしに行ったのではない。これは明らかに「拉致」であろう。拉致とは「無理に引く連れて行くこと」である。

 私は正確にシベリア「拉致・強制労働」と呼ぶべきだと思っている。

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