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なぜ、教室で「慰安婦」を教えてはいけないのか(25)

ー児童・生徒に慰安婦を教えるのがダメな理由 その7

 前回の(24)でこの連載はタイトルの「なぜ、教室で「慰安婦」を教えてはいけないのか」の結論を示すことができた。
 この後は、(25)として結論の補充を、(26)は補論を書きたいと思う。最後の(27)は「あとがき」である。

 今回の(25)では3人の識者の意見を検討することで、(24)の結論をふまえた「なぜ、教室で「慰安婦」を教えてはいけないのか」の理由をもう少し追求してみたい。
 その3人とは、風俗系ジャーナリストの松沢呉一氏、児童自立支援施設に勤めているあかたちかこ氏、感染症医の岩田健太郎氏の3名である。

1 松沢呉一氏の意見―デタラメを教えるな・教えるなら淡々と
 風俗系の記事を多く手がけているジャーナリストの松沢呉一氏の意見から見てみよう。
 
 検討するのは、松沢呉一「庄子晶子氏へ 買春で相手を言いなりにできるのか」(松沢呉一+スタジオ・ポット編集『買春肯定宣言 売る売らないはワタシが決める』ポット出版)である。

 まず、氏は年齢について言及している。

「仮に小学生の時から売買春についてまで教えることがいいことなのだとして、では一体どう教えればいいのだろうか。それ(売買春を教えていいという考え方 筆者注)が何歳かの議論はあるにしても、セックスをしていい年齢が想定され得るように、売買春をしていい年齢は想定され得る」(p24 カッコ内筆者加筆)

 氏の言う「小学生の時から」はあくまで仮の話であることを確認しておこう。松沢氏がこう表現したのは議論がここまでくる前提があるからだが、これは後述する。
 なお、現在の日本では売春防止法が施行されている。ゆえに、仮に「セックスをしていい年齢」は想定され得たとしても「売買春をしていい年齢は」想定することはできない。

 しかし、ここで大事なのは松沢氏が小学生からでもいい、とか中学生なら早くないとか、売買春を教えてもいい年齢については明確な判断を避けていることである。
 氏はこう続けている。

「今現在はまだすべきではないことを前提に、「売買春は金銭によって性的サービスを授与する行為」という事実を淡々と教え、その上で、売買春に伴う危険があることも教えればよく、デタラメを言ってまでモラルを押し付け」(p24)
 


 ・・・るのは間違いだ、というのが氏の主張である。
 松沢氏の発言の重要なポイントは

①「今現在はまだすべきではないことを前提に」している。相手が児童・生徒期の子どもなのだから当然である。
②「金銭によって性的サービスを授与する行為」であるという「事実を淡々と」教えよ、と言っている。
③「デタラメを言ってまでモラルを押し付け」るのが一番いけないと語気を強めている。

 そもそもこの松沢氏の文章は、庄子晶子氏の書いた「買春というのは「お金の力で相手を自分の言いなりにすることだ」と説明しました」(「小学生にテレクラ・売買春を語る」『“援助交際”の少女たち』東研出版 1997年 p15)という一連の文章への批判として書かれたものである(ところで、庄子氏は小学生になぜこんなことを語りたがるのか?私にはわからない。もっと語るべきことはたくさんあると思うが)。

 松沢氏は言う。

「買春と【お金の力で相手を自分のいいなりにすること】とは本来何の関係もない。(中略)庄子氏を筆頭にした、事実を歪曲する人々によって、性労働の現実は誤解され、少数とは言え、金を出せばなんでもできると誤解した客が性風俗店にはやってくる。(中略)金を出すことで買えるのは、それぞれの場のルールに従った「性的サービス」「性的快楽」であり、それに伴った人と人とのコミュニケーションしかない」(p22~23)

 つまり氏は、性労働の現場には「お金の力で相手を自分のいいなりにする」ような実態はないのに、あたかもお金さえあれば「相手が性交するつもりのない人であろうと、こどもであろうとかまわない」(庄子 前掲論文 p15)という事実があるかのように書くのは「デタラメ」だと言っているのである。

 松沢氏が批判している庄子氏の発言は、これまで見てきた慰安婦の授業や慰安婦をテーマにした書籍の論理展開と似ていると感じるのは私だけであろうか。

 本題に戻ろう。
 松沢氏は売買春を教えてよい年齢を「想定」することはできるかもしれないが、現時点ではその年齢を提案することなどできないし、自分はそれについて発言する立場にもないと考えているのではないか思われる。

 また大事なのは、仮に教えていいとすれば「売買春は金銭によって性的サービスを授与する行為」であることを事実として教えるべきだ、と言っている点である。売買春は「金銭」と「サービス」の等価交換である。これは「淡々」とした事実だ。
 松沢氏の言う「淡々」とした「事実」が教えられないのならば慰安婦は教室で教えてはいけない。なぜならそれは「デタラメ」を教えることになるからである。
これはこのまま、慰安婦授業肯定派の教師たちに読ませたいものである。

 だが、このような売買春の知識が小学生や中学生に必要だろうか。私はその必要はまったくないと考える。
 そもそもそのような性労働の現場と小・中学校の子供たちの日常は通常は無縁である。慰安婦問題は女性の人権と関係する、ということを言う人がいるが、女性の人権という課題については日常生活での言葉や行為によるセクハラ、異性とのデートとDV、将来の社会参加と男女平等参画の推進など小・中・高校生に理解しやすい身近な問題が山ほどある。そちらで取り組めば十分ではないか。

2 あかたちかこ氏の意見―「とても難しい仕事」と伝えること 
 あかたちかこ氏は児童自立支援施設で「個人性教育」を担当している。氏自身の言葉でいえば「青少年のセクシャルヘルスとその周辺を専門に扱う援助屋」だそうである。

 検討対象は、あかたちかこ「児童自立支援施設からの報告」『セックスワーク・スタディーズ 当事者視点で考える性と労働』(日本評論社 2018年)である。

 氏が対象にしている児童・生徒は、ガールズバーで働きたいという相談を持ちかける高校生や小学校高学年ですでにセックスワークに関与していた児童、性感染症にかかっていたことが後日発覚した子どもなど、とても「理想的」とは言えない家庭環境の子どもたちである。そこには、きれいごとは通じない現実がある。
 では、こうした子どもたちを相手にあかた氏はどのように売春やセックスワークを説明しているのか。

 まずは、ガールズバーで働きたいという高校生とあかた氏のやり取りを見てみよう(p226)。

「なんでガールズバーなん?」
 高校生は「だって給料高いやん」と即答。そりゃ、同じ働くなら給料は高いほうがいいよな。でも。(中略)
「うーん、まじか。いや、でも、えーっと・・・ちょっと話そうや。」
 それから、ガールズバーの給料がパン屋に比べてなぜ高いのかを、ふたりで考えてみました。それから、なぜわたしが「心配だ」と思ったのか、どこがどう心配なのか、どうなれば心配じゃないのかを言語化してみました。最後に彼女はこう言った。
「つまり、あたしにはまだ早いって思ってるってことやんな?」

 当然のことだが、あかた氏は未成年がセックスワークを選ぶことを「大人が黙って見ていられるか、と言うと、それは逆立ちしても無理な話」だとしている。そして、これを基本スタンスとして次のように言う。 

「「とても難しい仕事」とは思ってほしいけれど、「怖い仕事」とは思っていてほしくないのです。恐怖だけを刷り込んでも、本人のリスク管理の役には立たないからです」(p230)

 氏は、もしかしたら「この子が大人になって、またセックスワークを選ぶという可能性を、頭の片隅に置きます」という。「とんでもない!」と怒る方もいるかもしれないが、子どもたちの厳しい現実に繰り返し直面してきた氏だからこその指導者の心構えなのだと、私は思う。

「怖い仕事」という表現の中には、妊娠や性感染症の危険性や暴力的な客との密室での対応などが含まれていると想像できる。だが、もしかしたら大人になってリスク回避のスキルを身に付ければこれらはクリアできる問題なのかもしれない。医者・警察官・自衛官・建設現場など他の仕事にも危険な仕事はたくさんあり、それらも必ずリスク回避のスキルを身に付ける必要があるのは同じはずである。

 だが、あかた氏は「とても難しい仕事」とは思ってほしいと言う。ここにはどんな意味が込められているのだろう。
 それについてあかた氏はとくに説明を加えていない。ゆえに、以下は私の憶測でしかないが、私はこの「とても難しい仕事」という表現に小浜氏の言う、拭い去ることのできない「不道徳感」「汚辱感」があるように感じる。
「怖い」に込められた危険性は、他の仕事にもある要素だが、「とても難しい」に込められた「不道徳感」「汚辱感」には他の仕事にはまずない要素である。

 あかた氏のように日々、売春やセックスワークと隣り合わせの場にいる子どもたちを指導する大人でさえも、いやだからこそ「とても難しい」=「不道徳感」「汚辱感」を相手の子どもに伝えるために「丁寧に聞き」「一緒に考え」「対話を通して見出し」ているのだと思われる。

 慰安婦は売春を仕事するセックスワークである。ゆえに、これも「とても難しい仕事」である。その「とても難しい」を伝えるのは、いかにも難しいことだということが、あかた氏のエピソードと伝え方を読めばよくわかる。
 やはり、児童・生徒に教室という場で慰安婦を教えるのはその難しさを考えれば、不適切なのである。

3 岩田健太郎氏の意見―「生き延びるためのスキル」
 岩田健太郎氏は感染症の専門医である。お医者さんの立場からの意見を見てみたい。
 
検討するのは 岩田健太郎『感染症医が教える性の話』(ちくまプリマ―新書269 2016年)である。氏は中・高校を中心に学校で生徒に「性」の話をする機会を豊富に持っているという。

 岩田氏の見解はシンプルだ。

「ぼくの場合、性教育の授業で大きく扱うリスクは「(望まない)妊娠のリスク」と「感染症のリスク」の二つだ。これがもっとも遭遇しやすいリスクで、中学生や高校生にもイメージしてもらいやすいリスクである」(p59)

 つまり、氏の考える性教育は「生き延びるためのスキル」を身に付けることを目的としているのである。ゆえに「(望まない)妊娠のリスク」と「感染症のリスク」を回避するためのツールとして、中・高校生にはコンドームとピルは教えるという(「差し迫ったものではない」小学生には必要ないというのが氏の見解であることを付け加えておく)。

 セックスに関連したリスクとして「(望まない)妊娠のリスク」と「感染症のリスク」の他に「社会的なリスク」(望まない結婚を強いられる・不倫など)「お金のリスク」(離婚・争いごとにかかる金銭)「メンタルなリスク」(レイプ等の犯罪に関わる精神的トラウマ等)もある。だが、氏はこれらについてはあまり説明しないと言う。
 なぜか。
 氏は以下のように説明している。

「(時間がない、という理由に加えて 筆者注)生々しすぎてびっくりしてしまう人が多いという理由もある。それに、望まない結婚とかレイプとか虐待とか、そういうネガティブな話があまり強くなると、セックスそのものを全否定するという雰囲気も出てきかねない。それはそれで問題だ」(p59)

 「性」について語るときにネガティブな要素が子どもたちにマイナスのセックス観をもたらせてしまうことを心配している。これは非常に大事な教育的な観点だと言えるだろう。同じことを私も繰り返し述べてきた。
 性暴力描写による子どもの心への影響の大きさというものを考えれば、絶対に教育の場では扱ってはいけないものであることが、岩田氏の見解でも理解できる。慰安婦授業肯定派が実践した「性奴隷」の授業は絶対に許されないということだ。

 岩田氏の見解をこれだけ見ればもう十分だろう。
性の学習の基礎・基本が「生き延びるためのスキル」だとすれば、売買春や慰安婦についての知識は不用である。特別な例外を除いてはそれは「差し迫ったものではない」からである。
 
 また、岩田氏はこう言う。

「「情報提供すれば、「寝た子を起こす」」というのは根拠のないナイーブな考え方なんだけど、かといって「情報提供すればするほどよい」というのもやっぱりナイーブな発想だ」(p67)

 この例として氏は、マリナ・アドシェイドという研究者の報告を紹介している。これは学校にコンドームを置くような措置をとると、十代の妊娠が増えてしまうというものである。短期的な避妊効果はあっても、長期的に見るとそれは性活動の活発化を誘因してしまうという。
 この例からわかることは、仮にそれが事実だとしても教育の場では子どもの発達段階に配慮しながら教えなければならないということである。余りにも余計な情報は、かえって有害に作用することもある。
 当然のことながら、慰安婦は、公教育の場においては「余計な情報」のカテゴリーに入る性質のものである。


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