生きることに貪欲で在りたい理由。
「二十歳まで生きられない」
私は、二十歳まで生きられないと言われていた人間だ。
生まれて間もない時から、
原因不明の体調不良で、いつも嘔吐と下痢をくり返してきたという。
町医者では「風邪」「胃腸炎」と言われ続け、
都会の大病院を転々として病名が分かったのは3歳の頃。
当時、症例も少なく、また手術の成功例も少なかった難病。
「症例として貴重なので」
と私に"会いたい"医師は多かったそうだ。
「手術の成功確率は20%」
と医師に言われた母親は、夏の線香花火を見ながら私の人生が短いことを覚悟したという。
20パーセントの枠に滑り込み、8時間もの手術は成功。
しかし、私は消化器官の大部分を切除してしまったため、その後遺症で食事と運動に大きな制限がかかった幼少時代を過ごすことになる。
幼稚園はほとんど行けていない。登園シールがたまらず駄々をこねた記憶が残っている。
ちなみにその頃芽生えた将来の夢。
「かんごくさん」。
「看護婦(今の看護師)」のことである。
「半日遅れていれば助かりませんでしたよ」
順調に回復していたものの、一度開腹手術をした後遺症で二度目の緊急入院、緊急手術。
忘れもしない小学校一年生の夏休み。
一人だけ先に帰省していた私は祖父母と水族館に遊びに行った翌日のことだった。
「冷たいものを食べすぎたかな」
と思ってやりすごしていたが、時の経過とともにどんどん悪化する体調。
その時たまたま来ていた叔父の判断で、救急外来へ。
そのまま入院、あれよあれよと手術へ。
半日遅れていれば助からなかったそうだ。
私はまたもや一命を取り留めたのだった。
しかし、腸の一部が壊死。
運動制限は小学校中学年まで、食事制限は中学校卒業まで続いた。
遠足は欠席、体育は内容によっては見学、もちろんプールも見学。
小学校4年生くらいまでは、
とにかく体が弱く、入退院と自宅療養を繰り返してばかり。
(今の私を知っている人は、
「今日はエイプリルフールじゃないのにご冗談をまたまた…」
と言うだろう。)
人より制限が多いことが悔しく、母親と約束した門限を破って逆上がりの練習をし、しこたま叱られた。
元気な時に羽目を外し、自転車を乗り回したもののブレーキを誤り、高級外車の側面に激突。親は平謝りでウン十万円の弁償をしたらしい。
今の学校のように対応食もなかったため、給食も一人だけお弁当。
「お前だけ特別扱いされてずるいよな」
と男子に言われるのが悔しかった。
「誰にもバレなければ良いだろう」
と黙って唐揚げを食べた晩には救急搬送。
「唐揚げなんて食べていない」
と見え透いたウソを必死につきつづけ、医師にあきれられた。
「生」と「死」の狭間で
私は、皆と同じように学校に行きたかったし、皆と同じように遊びたかったし、皆と同じように勉強がしたかった。
いつも病院のベッドの上で、一人で計算ドリルをしたり、漢字ドリルをしたり。
クラスメートがくれた手紙を何度も読んでは、ぬいぐるみを並べては話しかけて遊んだり、本を読んで空想の世界で自由になってみたり。
もちろん、ただただおとなしくしていたわけでもない。
点滴台に足をかけて病棟の廊下を滑り、点滴がはずれ流血沙汰。
自宅謹慎ならぬ「ベッド上謹慎」になったこともある。
そんな想い出たちの中にある「生」と「死」の狭間の記憶。
小児科病棟ではたくさんの仲間がいた。
傷跡の大きさを比べ合い、勉強を教え合い、共に「命」と向き合ってきた仲間がいた。
しかし、仲間たちとの「別れ」はある日突然容赦なく私たちの関係性を変えていく。
それは例えば、
自分より先に退院する子だったり、
私が入院する前からいて私が退院するときにも病棟に残る子だったり。
退院後の定期検査で立ち寄った病棟で、長い髪の毛を三つ編みにしていた子の髪の毛が、全くなくなっていた時の衝撃は今でも忘れない。
そして…ある日突然忽然と仲間のベッドがきれいになった記憶。
子どもながらに、言葉にせずともその子が星になったことを悟った日。
私は幼心に、「生きること」と「死ぬこと」の表裏一体の感覚を身につけたのだと思う。
「経過観察」とともに生きる
「生」と「死」の狭間に立った私が、その後"順調"に生きることに貪欲だったわけではない。
「人は健康になるとそのありがたみを忘れ、体調を崩したときにありがたみを実感する」
といわれるが、もれなく私もその一人だった。
あれから30年余りが経過し、今でも私は半年に一度の定期検査が欠かせない。
正直、面倒くさいと思うこともあるし、検査代も3割負担でもまぁまぁする。
ただ、この半年に一度の定期検査が私に「貪欲さ」を取り戻してくれる。
普段は健康体そのもので、よく食べるし、よく飲むし、時々不規則な生活で、気づいたら朝…なんてこともザラにある。
何にも制限のない生活。
後遺症もなく、体調は安定。
しかし私は「経過観察」なのだ。
その言葉通り、経過を観察する状態なのだ。
先日主治医にも言われたが、再発の可能性はゼロではないという。
同じ病気の人の多くが何度も手術をしているようで、私は今のところ「運が良い」部類らしい。
病名自体は異なるが、その関連で特定のガンになるリスクも他の人より高いようで、血液検査では必ず腫瘍マーカーをチェックしている。
そうやって自分の体と向き合う機会を半年に一度与えられていることで、自分の「命」と向き合う機会にもなっている。
そういう意味では私は今も「生」と「死」の狭間で生かされている。
生きることに「貪欲」で在りたい。
大人になるまでは、自分の過去がそこまで自分の人生に影響を及ぼしているわけないって思って生きてきた。
いや、むしろ「影響されたくない」と否定して生きてきた方が正しいかもしれない。
しかし、改めて自分の歩んできた道を振り返ってみると、影響を受けていない訳がないな、と思わされる。
看護学部に進学した理由、
養護教諭を目指した理由、
大学院に進学した理由、
YOUKYOUカフェという事業を立ち上げた理由…
全部根っこは繋がっている(おいおいnoteでも記事にしていきたい)。
生きる、ということ。
生かされている、ということ。
今、ここに在る、ということ。
ようやく気付いた「自分」として在ることの意味。
「present」という英単語は、「贈り物」という意味の他に、「今」「存在する」という意味がある。
過去に贈られた私の経験は、今に続くプレゼントなのだと今の私は素直に思える。
私は生きることに貪欲だ。
そしてこれからも貪欲で在り続けたい。
今日という「生」に満ちた一日は、「死」に最も近い一日でもあるのだから。
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