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返歌と足枷と恋文

*返歌

 昔の人は、手紙で、言葉だけで、恋をはじめた。

 私が思い描く「返歌」というのは、大和和紀さんの「天の果て、地の限り」の中の、飛鳥時代の歌人、額田女王ぬかたのおおきみ大海人皇子おおあまのみこ(後の天武天皇)が交わした短歌のことを意味している。

 実際の歴史上の人物だが、その本の内容が事実に即しているかはわからない。ただの宴席での座興という説も読んだ。ただ私が、ロマンチックな恋の返歌と想って大切にしているだけだ。

 万葉集に残るその歌。蒲生野かまふの遊猟みかりに出かけた時に、大海人皇子の兄であり、額田を寵愛する中大兄皇子なかのおおえのみこ(後の天智天皇)の前で、取り交わした二人の歌。*「万葉集」巻1の20・21

 額田が詠む。
あかね指す 紫野むらさきの行き 標野 しめの行き 野守のもりは見ずや 君が袖振る」 

 すかさず、大海人皇子が返す。
「紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」

  茜色の紫草の野を行き、その野を歩いている。
  野の番人は見ていないかしら。あなたが袖を振るのを。

  紫草のように香れる君が、もしも憎かったなら
  今は兄の妻である君を、どうして恋い慕うことがあるだろうか。

 袖を振るという行為は、相手を誘う意味があると言う。
 自分の夫の前で、その弟君であり、かつての夫に向けてそんな歌を贈る人。どう想われようと堂々としているのか、戯言なのか、強い想いなのか。
 それに対して、堂々と恋していると答える、在りし日の恋人。

足枷あしかせ

 先の額田の話で、足枷という言葉が出てくる。
 巫女である額田が大海人皇子にはじめて抱かれる時に、心でつぶやく言葉。

 足枷をつけられてしまう。でもそれは、なんて甘美な足枷なのだろう。
 それまで神と交信していた巫女の額田が、人間に足枷をつけられてしまってただの女になってしまうという描写だ。

 この「足枷」という言葉が、ずっと脳裏から離れず、男にはじめて抱かれた時、額田のその言葉が私に覆い被さってきた。

 天井を見つめながら、窓から時折射す車のヘッドライトの細い光のラインを目で追いながら、これが足枷なのかと。

 甘やかな足枷は、胸を掴まれる程のせつなさを持って、誰かのものになるとはコウイウコトダと伝えてきた。

 それは、ずっと抱えていくことになる、この瞬間を閉じ込めた氷の印であって、同時にただ駅に置いてある記念スタンプと変わらないようで、そんな相反した二重のしるしをつけられたような感慨でいっぱいだった。

 心は渡さない。たとえどんなに一途にあなたを想っていても。
 身体中に烙印を押されながら、私の心は誰のものにもならなかった。よりさみしい余韻ばかりで、絶望にも似た想いが残ったのを覚えている。
 とてもすきな人だったのに。その人で良かったのに。

*恋文

 私にとっての返歌。 或いは、手紙について。

 しばらく振りに小説を書き始めた場所で、何にも代え難い人たちと出逢った。まさか自分がこんなに人に左右されて何か新しく書きたくなるなんて、想像もしていなかった。
 書くことは、ただ孤独な、遠い果てまでの一人旅のはずだったから。

 この私小説の発端は、とある美しき凛とした人に読んでほしかったからだ。
 その人に、彼女の麗しき作品に、私は女ながらうっとりと惚れている。そして、 何度も心を掬ってもらった。彼女の解釈なくば間違った方向を見てしまうくらい、私は迷っていた。愛しき紫陽花の人。もう遠くなってしまったけれど、今でもあなたを慕っている。

 自分の想い出だけ書くつもりが、言葉の欠片をくれる人からの書簡で、檸檬について思いの丈をぶつけることができた。
 あの一話で、私は変わったように想う。素直に心のまま書けるようになった。たががはずれたのだ。心に自由な風が吹いた。嬉しかった。
 大切なかけがえのない人。心配して支えてくれたから、いつも私はあなたに甘えてしまっていた。

 私は航空灯に熱情をぶつけた。言葉だけに恋をすることは可能だろうか。私に於いては、有りだったのだろう。言葉を交わすようになって、尚更。
 たとえ終焉に向かおうとも、私はこの大切な日々を決して忘れない。仮想空間を行き交う嬉しかった言葉の花束たち。そこかしこに痕跡を残し、鈍い探偵すら黒だと判定できるほど。

 たとえ、あなたが誰かを抱えていても、傷つけ合ったとしても、一つの後悔もそこにはない。私に届いた手紙はまだ存在する。さよならも告げずに行ってしまったけど、きっとどこかで言葉を紡いでいる。

 私は、その三人に詩を贈った。
 二つは、返歌である。一つは、手紙であった。
 こうして、私は誰かに向けて書くことを覚えてしまった。同時に、過去の恋人たちにも、密かに宛てているのだけど。

 自分のためだけに書いていた文章が、誰かに真っすぐ届いてほしくなった。
 直球のような、誰が読んでもわかる返歌を書くことがある。その人にしかわからないような小さな微かな言の葉を、秘めた鍵のように入れ込むこともある。
 その甘やかさと危うさ。ほんの少し前の自分にはなかったもの。

 こんな出逢いは奇跡だ。そうそう転がっているわけではない。互いに言葉を気に入り、交わし合う。この先ここまで夢中になる人が現れるのかはわからない。
 もう、ここで、いい。 毎日、せつないこころで綴る私は、まともじゃない。
 いつのまにか過去になってしまった。全て私のせいで。壊してしまった。

 大切な相手が、書き手であること。これは、何よりもしあわせだ。
 書いてくれる限り、存在してくれる限り、密かにも読むことができる。
 そして、私の世界を読んでもらえるように願って、今日も書いていく。

 性懲りもなく、私はまた恋をする。いつだってこれが最後になるといいと願って、今を大切に想う。

 顔も知らずに恋するなんて、そんなの本当の恋じゃないよ。二次元の恋なんて在り得ない。みんなそう言う。そうかもしれないね。折角だから、リアルの恋とは違ったっていいじゃない。

 私はあなたの文章に、言葉に惹かれてしまった。あなたもきっとそうだった。そして互いに言葉を交わすようになって、より深く知りたくなって。そういう気持ちを、恋にたとえてはいけませんか。同志で十分かしら。

 きっと私の恋は、逢っていてもそんな風だ。重さを知らない。風に乗って、ただ気持ちをときめかす。質量を感じられる先に進むか否かは、相手次第。
 最初はみんなそんななの。横顔がすきだ。声がすてきだ。立ち姿に見とれた。そんな欠片たちと同じに、君の言葉がすきだ。

 そうやってはじまったものの、行く先なんて知らない。約束なんて、きっと出来はしない。永遠の片想いの覚悟をして、ここに立ち尽くす。




「忘れられない恋」 第40話 返歌と足枷と恋文
 いつのまにか、誰かに宛てて書くことがなくなった今。
 だから、もう言葉が上澄み程度にしか出てこないのかもしれない。
 


 
> 第41話 あの街を遠く離れて

< 第40話 消えたいくらい

💧 「記憶の本棚」マガジン

いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。