見出し画像

私はね、私の生きた道をそんなもん扱いされるのが大嫌いなんだ

いや、本当はタイトルで終わってしまうんだけれど…

私は多分地域的には比較的に裕福な土地で産まれ育って大学まで行かせて貰った。相当機能不全家族で性格はひん曲がったけど。

20代前半で結婚して、最初は青山に住んで、その後城東方面の下町のマンションを買った。7年モラハラとDVを受けて精神ボロボロになって、それは今でも続いているけど。

再婚して子どもが産まれたはいいけどうつが悪化して、自傷他害と妄想が酷くなり、実家に帰されて2年くらいネトゲ廃人をやって、なんとなく派遣で働くことができるようになって、家に戻った。今何もできないけど。

端的にまとめると自分が生きてきてこれまでの概略というのはこんな感じであり、泥まみれになって掴んだものはないにせよ、きれいな川ですんなり生きてきたとは、本人としてはちょっと言い難いものがある。

それを元夫は「お前より不幸な人間は沢山いる」と言い、義母は「売られなかっただけいいじゃない」と言った。彼らの価値観からみたらそう見えるだろう。明日食う飯や家に困ったことはないし、貧困も経験したことがない。

だが、食卓についてピンとした緊張感の張り詰める中で詰め込んだ料理の味、行きたくない学校と帰りたくない家、夫との会話より楽しい雑談、自分が現実にいないような感覚、喚き散らしながらもする家事。

そういうものを抱えて生きる、或いは生きたのはちょっと酸欠気味だった。泥流とは言わない。感覚的には汚水だ。汚水の中で生きてきた。でも汚水だろうがスイスイと生きている個体はいて、私はそれが羨ましくもある。

だけれども私は汚水の中で生きてきた弱い個体で、もしかしたらどこかで息絶えたり、泳ぐのをやめて川の流れに乗るだけだったのかもしれない。でもなんとか生きてる。まあそれで掻い潜ってきた、それは自分を褒めたくはある。

ただ私の狭量さは、自分で自分を褒めそやすのは構わないのだが、清流を泳ぐ者からの視点で私を見ることと、また泥流を這う者から見られることで。特に清流しか知らない者が私のそれまでや今を評点したがり、またそれを拒絶することに理解がないことに非常に腹が立つ。泥流の者が、私の持っているものや衣食住に困らない生活を羨まれるのは困惑する。

それにいちいち腹を立てていたらやっていけない、過去のことなんて気にせず生きろ、そういう人もいるだろう。だけれど、汚水の中で呼吸をしていたこと、鱗が剥がれ傷がついたことは、絶対に消えはせず、忘れることもできない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?