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ドブネズミにすらなれないよ

YANAMi先生の、ドブネズミは別に美しくない

に対する感想というか、私の過去の恨み節というか。

保育園の年長の時。
杉の木の中に座って上を見て葉を観察していたら
「あれ、私が今いなくなっても、明日や、また次の日も、ずっと続くんだよね?」
と、思ったというか、気づいたというか。
しかもそれでずいぶんと救われた子供時代であった。

思えば小学校の入学式の日。
男女別に並んで、隣になった子と手を繋ぎながら体育館に入場、と指示があった。
私が横に手を伸ばすと、背の高い男の子は、明らかに見下した目をしながら鼻を鳴らして、手を薙ぎ払った。

入学式の前から私の立場はそれで決まったもので。
それは彼が、学区で一番大きい幼稚園で一番のいじめっ子であり、もう入学前から塾に通っている、一番頭のいい子だったから。

通っていた小学校は2年に1度クラス替えと担任の変更があるから、2年生の頃まで、包容力のある、子どもたちをのびのびさせる教師だったので、少しのからかいで済んだ。
だが、私の前後1学年、つまり2.3.4年生が、3年に割り振られた教師が制御力に欠け、もう一人はガチガチに管理するのに子どもの好き嫌いが激しかった。
そして私の学年が学級崩壊すると、2年と4年も同時に崩れ落ち、跡地に200人の小学生で作られるスクールカーストが出来上がった。
壮観である。

その中で私は

「○○菌!」

と呼ばれる、ヨゴレの象徴で、素手で触れば感染症だが、蹴りや道具を使えば暴力を使えるし、やめて、と叫んでも
「菌が喋った!」
と驚くフリをして気が済むまで続行、人権教育や道徳の項目もあったが
「人間じゃないから関係がない」
という、屁理屈として大変優秀な理由で効果はなかったし、大体教師にまで嫌われてるのっていじめを許すってことじゃないですか。

ちなみに今、当時のいじめっ子らに
「菌が人型に見えて声が聞こえるって、お前らはもやしもんのただやすか!?」
と思う程度にはのんびりした気持ちで書いているので、私の情緒が心配な人は落ち着いてほしい。

中学にもその残り香はあったが、私は中心の少し外にいたし、人間扱いではあったし、進学校から大学に進んだので、ぼんくらな変り者として名を馳せただけだった。
いやまあ名を馳せた程度には目立ってたが仕方ない。目立たないことができない。

それからが意味不明に大変だった。

友人の恋人や配偶者に嫌われまくる。

友人たち電話とかメールするとか、ネットのメッセンジャーで話すとかで、デートのスケジュールの日は飛ばして予定立てて酒飲みに行ったり、暖房が壊れた友人の家で、3〜4人で鍋をつついたあと、各々毛布や寝袋にくるまって、1stガンダム映画版を見たり、仕事ついでのドライブとか…まああとお節介の焼きすぎってのもあったか。

そういうので激怒する女性がいる、というなら、そうか、と回答にはなる。
それにより私と友人とが別離しようが
「幸せに生きておくれ」
と思う以外に何もない。

ただ疑問なのは、どれくらい怒るかといえば
「気持ち悪くて怖い」
「存在すらしてほしくない」
「一生許さないし発達障害の検査をして欲しい」

…とまあ、そんななんで
「配偶者の友人として非常に不愉快である存在を、この世にいて欲しくないとハッキリ言えるなんて、なんつうエゴイスティックな発想かねぇ?
と、加速度的に進化していくコロナウイルスには絶滅してほしいが、元菌としては、あるって認識は目を逸らさず生きろよ…と思うのだった。

そして、菌類だの存在してほしくないだのと言われて落ち込み、それに呑まれてしまいそうになると、保育園の時の
「私が今この世から消えても、明日も明後日もあって、それがずっと続く」
に気づいた、自分が存在しなくなるのが嫌ではなく、存在して変えられる可能性のあるものが失われることへの寂しさや拒否感を思い出すのだ。

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