「像」についての無駄話

 像~~像~~理想像~~

 人間を構成する要素を大まかに分けてみる。
〇肉体的資質
・性別
・年齢
・外見
・運動神経
・筋力

〇精神的資質
・性自認
・精神的成熟度
・人格
・知能指数

〇外的要素
・収入
・生活環境
・社会的地位

 かなり取りこぼしあると思うけど、まぁ雑に進めていくね。

 まず理想像と言っても、色んなものがある。理想の恋人と理想の親友は明らかに違う像を結ぶだろうし、もちろん理想の自己像はもっと違うと思われる。それに「理想の恋人」と一言で言っても、それが複数の像を結ぶことがあったりすると思う。親友も、自己も、親も、子供も。

 さて、これらを実際に作り出すことができるかどうか考えてみよう。

 まず第一として、肉体的資質は現代の技術では作り出すことができない。どれだけ再現されたマネキンでも、それはしょせんマネキンであり、像は実際に動いている姿を像として結ぶのだから、無理である。
 自分の体についての理想像の場合は、自分の体の可能性と努力次第では近づくことができる。
 外的要素も、肉体的資質と本質的には変わらない。自分のそれであるならば、可能性と努力次第となる。

 では精神的資質はどうであろうか。これも基本的に不可能である。精神は肉体に付随するものであり、肉体が再現できない場合は再現不可能である。
 自分の理想像については、肉体や外的要素の場合と同じである。

 人は文章を書く時、自分の精神をそこに映し出す。文章は、そこに精神を持った存在がいなければ生まれることはない。ゆえに、理想像を「実際に存在するかのように偽造すること」は可能である。それは「虚構」である。
 そこには肉体はなく、精神的な像だけがある。そして、人間が見る景色や触れるものは基本的に実体に対して「像」という形で理解しているので、実際のところ、虚構と現実の間の決定的な差は「感覚できるか」という点のみにある。

 感覚できるか。五感その他、実際に自分がそれをそれ自体として「感じている」という感覚を持つことができるか、という問題である。

 だがこれは、あらゆる文章について言えることであり、文章を介したコミュニケーションは常に「像」→「像」という形式を持っているため、感覚できない。(感覚する、とは「実体」→「像」という形式である。文章は常に、それが文章であるという時点で「像」である)

 ひとりの人間が、それに対してはっきりとした「像」を持っている場合、その「像」を正確に描き出すことができる。逆に言えば、はっきりとした「像」を持っていない場合は、それを描くことは難しい。

 「自分自身の文章」というものを書けない人がいるのは、ある意味「明確な自己像」を描けないことに起因する。その人は「実体」を持っていて、それを「感覚」しているが、それを確固とした自分自身の「像」として取り扱うことができないのである。


 逆に言えば「像」さえしっかり持つことができるのならば、その「像」の裏側にあるものを意図的に他者に暗示することも可能である。つまり「実体のない像」→「像」→「像」という形式を取れば、その「像の裏側にある存在」が暗示され、それが実体を持って存在するかのような虚像を持つのである。

 分かりやすく説明すると、私(睦月)の中身が四十台くらいのイケてる(これ大事ね)おじさんだとして、おじさんがまず「睦月文香」の像を作り出して、その後「睦月文香という像」を自分の精神の中で自律的に動かし「睦月文香が書く文章」を像として結ぶことに成功した場合、他者から見たら「睦月文香が書いた文章を書いた人間が実際に存在する」ことを暗示するので、おじさんのおじさん性は隠蔽され、むしろおじさんが存在する場所に「睦月文香性」が虚像として映しだされるのである。

 私を描き出している人間がおじさんであった場合……私のおじさん性は……おじさん性ってなんだwww

 なんか書いてて面白くなってきちゃった。なんでおじさんって存在自体が面白いんだろう。

 「もし私の中身がおじさんだとして」っていうフレーズ自体がパワーありすぎて、真面目さを維持できないんだけどwww

 ええと。そうだな。じゃあ、私の中身が二十台半ばのイケてる(もちろん大事)お姉さんだとして……もう何が言いたいのか分かんなくなっちゃったwww


 よし、ちょっと思考の方向性を変えるね。

 像はそれを書いている人間を暗示するんだけど、暗示されたそれを探り始めると「なぜそういうことをするのか」という目的性をもとに考えるのが、普通の人間の思考回路だと思うんだ。
 つまり「睦月文香」が実在しない、計算されて描き出された虚像であると仮定した場合「なぜそのような虚像を描き出すのか」という問が必然的に生まれて、それを明らかにするには状況証拠を必要とするわけだね。

 私が書いた文章の中で、私が演じていない部分を探し出して集めてみれば、私の「中身」が漏らした「中身性」が見つかる、っていう考え方。

 んー。

 そのさ、私の場合その「漏れた中身性」自体が、像を結ばないと思うんだよね。つまり、私が漏らした「睦月文香性からの逸脱」っていうのが、それ自体の像がどこにも繋がっていない、ように私には見える。他の人からどう見えるかは分からないんだけど「こういうものを書く人間がどういう人間であるか」ということを予測するのが難しすぎるんじゃないかと思って。
 というのも、私のような書き方をする人間、私のような生き方をする人間、というのがこの広いネット社会にすらあまり見られないから、さ。サンプルが少なすぎる。
 それも全部「睦月文香性」に帰してしまった方が、考えるのが楽。ゆえに、多分私は私の実在性を疑われつつ「多分それほど実体と大きな差はないんじゃないかな」と思われてる、と私は思う。

 実のところ私は自分についての像はできる限りはっきりと結ばせようとしているんだよね。意識的に。でも読み直していると、ひとりの人間が書いているようには見えない部分がある。つまり、共同アカウント、多重人格、ネカマなどみたいな印象が少しある。
 でもそこには無意識的な共通性もあって……

〇精神的資質
・性自認
・精神的成熟度
・人格
・知能指数

 さっき語ったこれのうち、性自認や人格は捏造可能だけど、知能指数や精神的成熟度は、上限が存在するんだよね。上限って言うのはつまり、それを書いている人間(実体)自身のそれ。つまり、書いている人間以上に賢い人間を暗示する文章は、書けないんだよね。「ハーバード大卒!」みたいな肩書はいくらでも偽装できるけど、実際に読んでいる人に感じさせる知的な印象は、偽装できない。
 それを隠すことは可能だけど……私の場合はめったに隠さないから、私自身を知的だと思うかは人それぞれだと思うけど、なんつーかな、私の実体が一人の人間であることは、多分明らかなんじゃないかなぁと思う。

 そうなってくると「トランスジェンダーの男性」みたいな像は結びやすいんだけど、私自身の性自認とか性的趣向ってあまりにも何というか、固まってるからさ「トランスジェンダー感」はないんじゃないかと思ってる。
 私は私を女性として自然に扱ってるし、性的趣向は男性と女性両方に自然に感じるし、身近にそういう人間が何人かいたから……(あーあーあーあ。こういう暗示よくないんだよなぁあんまり。わざとらしいねん。でもどうでもいいや)というか言ってしまえば、私の父親がバイセクシャルで、男同士で付き合ってたこともあったらしいから、そういうのを不思議というか、不自然なことだと思わないんだよね。だから、私が同性に対して性欲を抱いても別に普通っていうか、そういうこともあるよねぇって感じ? 歴史上、同性愛者の偉人も多いし、何も特別なことじゃないというか。

 んーつまり、そういう思想的な部分って多分偽装するのが難しいというか、どう隠したって漏れてきちゃうと思うから、私のような女性像を描く人間が、トランスジェンダー的な男性であると考えるのは、ちょっと難しいんだよね。
 だとすると、トランスジェンダーとは別に、妙な女体化願望のある男性というのだと、まぁ矛盾しない。
 あと矛盾しないのは、外見にコンプレックスのある、三十歳以下の女性。つまり、一度でいいから美人の気持ちを味わってみたいと思って、そういう自分を演じて書いているうちに楽しくなって、それをずっと続けてるうちに引っ込みがつかなくなったパターン。私がちょくちょく「私美人だし?」みたいなアピールする理由にもなるし、そういう正体を隠すために、今私が先に「睦月文香ネカマ説」を推していた理由としても正当になる。
 
 んー……私、中身おじさまとか女体化願望マンとかだと思われるのは別にいいけど、顔面コンプレックス女性の理想の自己像だと思われるのは嫌だな。それは、いやすぎるな。
 もしそうだったら、私は私でその子に対して「お前、こんだけ美人のつもりで文章書けるなら、実際生活でも美人になったつもりで自分を磨けよ!」って言いたくなっちゃうかも。(でも実際、そんなに美人になりたい願望あるなら習慣整えつつ簡単な整形でもすればいいと思うけどなぁ)

 まぁでも、何というか、私は私の顔好きだけど、なんだろ、私の顔苦手っていう人もいるというか、いたというか、悪口言われたこともあるし、私自身昔は気になってた部分もあるから別にそんな、すげー美人ってわけじゃないというか、自分よりかわいい子(違うタイプの顔つきだけど)だって身近に普通にいたし……何の言い訳だよこれ。
 言い訳すればするほど疑惑高まるパターンじゃないのこれ。

 しばらくブスになったつもりで文章書く? 実際にブスになっちゃいそうだからいや。結局肉体と精神って相互的な関係だから、気持ちブスだとブスに近づいていくし、気持ち美人だと美人に近づいていくと思う。勝手にそう思ってる。(つーかそういう統計的データなかったっけ? どっかで見た覚えあるな)

 多分私、中身男性だったとしても結構イケメンだと思うよ。
 でもイケメンって自分のことイケメンってあんまり言わないよね。美人は自分のこと「うふふ~」みたいなあれで、自覚してる感アピールするみたいなんあるけど、イケメンってイケメンって言われるとびっくりするというか、困惑するみたいなイメージある。「そんなん知らんわ俺……」みたいな。
 あれいいよね。個人的にあぁいう態度好き。心底迷惑そうにしてるイケメンもいいし、ちょっと照れ気味のイケメンもいいし、素直に喜ぶイケメンもいい。(ただしイケメンに限る)(そもそもイケメンとは何か?)(それについての記事別で書こ~~)

 趣向のことは置いておいて、なんか話がごちゃごちゃしてきたのでそろそろ終わりにしようと思います。かんっぜんに無駄話でございました。おほほ。

 ふと思ったけど、基本的に男性って自分より優秀な女性を見たがらないから「こいつ絶対ネカマだろ」って決めつけること多いんじゃないかと思う。(テレビにめちゃくちゃ頭よくて口達者な女性って出てこないよね。男性にはそういうキャラ多いのに。これ明らかに歪みだと思う。海外だとどうなんだろう)
 逆に女性はなんていうか、小器用で女心分かってる男が好きだから「こいつネカマだったらいいなぁ」って思うこと多いんじゃないかと思う。んーでも、女性はあんまり……何だろう、そういう非現実的なこと考えてそれを期待するみたいなことはあまりないんじゃないかな。でも女って時々想像の斜め上行く妄想し始めるからなぁ……(自己紹介)

 私、男になるか(笑)

 でもイケてる青年は演じられる気がする。あの……死者に対する冒涜かもしれないけど、死んだ親戚のお兄さん像は演じられるというか……冒涜! うふふ。

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