パスカルの本質は理性の絶望にあるのに

人間は一本の葦である。

 この言葉は有名になりすぎた。あまりにも、作品全体での位置が無視されて、その言葉だけが独り歩きしている。実際にパスカルのパンセに触れたことがあるなら、その宗教色に現代人は辟易することだろう。あれはほとんど、キリスト教、しかも、かなり教義の厳しいヤンセニズムに人を誘導するための文だ。

 名著に描かれた思想のうち、自分たちにとって理解しやすい部分、受け入れやすい部分だけ目立たせて、線を引いて、太字にして、自分自身の文章の一部に組み込もうとするのは、私にはどうにも……知性の欠如を感じさせる。いやもちろん、それが一種の冗談であるならば、何とも思わない。ただ「空は青いなぁ」というようなノリで「パスカルは哲学者で人間は葦だなぁ」と思うこと自体は別に悪くはない。
 自分のやっていることを自覚していないのが問題なのである。格言は常に、その原著を全体の流れから見なくてはならないし、それだけから何かを感じ取ろうとしても、どうあがいても、自分勝手で浅薄な解釈しかできなくなる。


 パンセは、元々キリスト教の護教論のつもりで書かれ、出版される予定だった。その前にパスカルは死んだ。未完成品であると言われているが、その著作の中には、自分がそれを完成する前に死ぬことを悟っている思われる個所がある。
 それは、多くの断章の形式で書かれている。まるでそこに、ひとりの人間がいることを思わせるような、言葉のつぎはぎなのだ。それなのに、いや、それだからこそ、その思想が深く心に沁み込み、特にその絶望が、理性的な絶望が、あまりにも、特定の人間の(私の)心臓を掴む。
 無神論に向かっていく者たちを、キリスト教に引き戻すための書だった。だけれど、実際にそれがどれだけ効果があったのかは疑問だ。私は、トルストイがパスカルによって育てられたと言っても過言ではないのを知っている。その両者に共通するのは、息苦しさである。それはキリスト教のせいで生まれた息苦しさというより、知性によって生まれた息苦しさであるように思う。そして……息苦しさを受け入れ、その中で何かを為すということの価値や意味を……

 考えることをやめることによって、自覚することをやめることによって、何も知らないまま死ぬことを、哲学者は皆否定する。
 パスカルは、知るということ、理解するということ、悩むということ、それらがいかに苦しく、悲惨なことであるかを、自らの思考によって示すと同時に、その思考こそが、神への理解、および信仰に役立つこと、いや、考えれば考えるほどに理解は追いつかず、だからこそ、真に必要なのは思考の先にある信仰。迷い、悩みの先にある、迷い、悩みのない信仰を、彼は説いたのだ。

 現代では「考えなくてはならない」と人に宣う人間があまりに多すぎる。そのような簡単な言い方をすること自体がひとつの思考停止であることを、思考を放棄し、まわりに同調するだけの行動であることを、彼らは自覚しないし、するつもりもない。彼らは「人間は一本の葦である」と言ってのけることはできるかもしれないが、実際に自分が一本の葦であると考え、それに絶望することはできない。なので、自分が宇宙よりも偉大であることをも当然自覚できないし、実際に、宇宙より偉大でもなんでもない。

 彼らはまだ考えることに苦しんでいないのだ。彼らはまだ、自らの思考が自らの肉体や精神を蝕んでいくあの感覚を知らないのだ。
 理性は人を、どこまでも惨めにする。考えれば考えるほど、私たちは惨めになり、その惨めさに打ちひしがれる。その一方、惨めさは、理性が了解した、元々そこに存在した、隠された真実なのであり、それを理解しなければ、真の信仰への道は開かれない。パスカルはそう説いたのだ。

 彼が正しいかどうか、私には決定しかねるが、パスカルをろくに読んだこともないくせに引用したがる連中の愚かさだけは正しいし、そういう愚かな彼らにも惨めさを味合わせてやりたいとパスカルが考えていたという私の勘も、多分間違ってはいない。

 どれだけの苦痛があれば、あそこまで深く人の心を貫けるのだろう。その警告も、その嘲笑も、私の魂によく響く。

 それは奇跡を冒涜するために濫用される他の一面の真理である。
 「蓋然論」を捨てろ。それは世の人の機嫌を取るためにしか役立たない。
 われわれの信仰を直感のうちに置かなくてはならない。
 私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見する方が、ずっとおそろしいだろう。
 われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかしこれこそ、われわれの惨めさの最大のものである。
 理性の服従と行使、そこに真のキリスト教がある。

 これらは今、私がパンセを本棚から持ってきて、たまたま開いたページに書かれていたものである。
 これらの言葉が「一本の葦云々」と比べて、その重要度が劣るものだとは思えないし、パスカル自身も、おそらくそのつもりで書いていたことだろう。
 おそらく……結局彼がもっとも伝えたかったことが何であるか、と問われれば、理性は無力であり、無力であるからこそ、信仰によって用いられなくてはならない、という、信仰への理性の服従論か。

 いずれにしろ、信仰がなくたって、私たちが惨めであることに関してだけは事実であり、私たちが逃れることのできない絶望でもある。

 あの有名な言葉が、私の心臓に突き刺さった鋭い槍に触れ、その痛みを思い出させるのなら、きっとそれが、理解できない人間がその言葉をまき散らすことの正当な理由、あるいは奇跡になるのかもしれない。

 神を信じず、それが死んだものとして考えることがどれほどの苦痛であるか。しかし私はその苦痛に慣れ、もはや私のために用意された地獄を甘んじて受け入れられるほどになった。
 私はパスカルに対しては「私はあなたの言う神なき人のように、いや、悪魔のように生きていくことに決めた」と言うしかないし、だからこそ、私は彼を尊敬しているのだ。

 私の理性は、私の地獄の案内人であり、天国へのそれではない。

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