ジェンダー論

 性についての意識みたいなので色々ごちゃごちゃした問題なり意見なりを目にする機会が多くなった。
 マジョリティだとかマイノリティだとか、真剣に議論する人もいれば、ほとんどヒステリック気味に当たり散らす人もいて、結局何が問題で何が問題でないのかもはっきりしていないように見える。
 そもそも「ジェンダー(性別)とは何か」という定義自体が、人それぞれ異なっているから議論が進まないのは当然である。というか意見の相違の本質はその規定自体のズレにある。そこが合致しているならば、そもそも問題とはなっていないはずなのだ。

 よく言われるのは「男性だから」「女性だから」という偏見や社会的な圧力があるということや、「男性らしく」「女性らしく」というような、一種のそれぞれにとっての理想形というか、平均というか、そういうもの自体に矛盾なり気持ちの悪さを感じる人が多いということだろう。

 だが、待ってほしい。そもそも「社会的な押し付けがましいジェンダー観」と「トランスジェンダー」や「レズ、ゲイ、バイ」等の、自意識や性的趣向の個人的問題は別の問題なのではないか?
 そもそも「男性的男性、女性的女性とは、一般的にこれこれこういうものである」という規定自体がおかしいのではないか?

 ようはたまたまその時代の「大多数」が、その「男性的男性」「女性的女性」なのであって、生物学的にはそもそも「男性の特徴」「女性の特徴」など、肉体にしか関係のないことなのではないか? 
 労働や文化に関しては完全に後天的に獲得されるものであって、先天的な潜在能力に差はあれど、男女間の間に大きな精神的な相違はないのではないか? あったとしても、それは統計的にしか分からないものであり、はなはだ偏りの大きい個人を見たときの判断材料にはならないのではないか?

 このように考えてみると、そもそも「大多数」というのは、たまたま社会が決めたくくりの中に当てはまっている人のことで、そこから零れ落ちた人間が全て「外」に追いやられるわけだ。で、その「外」の中で、似た者同士で規定しあい、ひとつの特徴の旗の元で集まれば「少数派」「マイノリティ」として全体から認識されわけだ。
 忘れてはならないのは、あくまで「集まったから少数派として認識される」のであって集まらなかった「大多数外」はそもそも「マイノリティ」ですらないのだ。


 あくまで「性についての自意識(自分がどの性別であると考えやすいか、あるいは感じやすいか))」や「性的欲求の方向性(どのような対象に欲求が向けられるか)」は、その個人のパーソナリティに属する問題であり、つまり本来、性にまつわる個性は「その人間」の属性のひとつに過ぎない。(その猫が雄であるか雌であるかということだけが、その猫の性格や生き方を決定づけるわけではないように、人間もまた男性か女性であるかというのは「たまたまそうである」というくらいの問題なのではないか?)

 性的な属性、個性を「大多数」「少数」等と分類し、壁を設けるのは完全な不正である。

 たとえばある子供の耳が片方なかったとする。でもその子のもう片方の耳はちゃんと聞こえているし、別に不便することもない。とするならば、その子を特別扱いする理由はない。少数派でもなければ、多数派でもない、ひとりの人間として扱えばいいだけである。

 当然、同じように性の意識が社会の求めているものとズレていたとしても、それは社会が勝手にそう定めた問題であり、その人自身の問題ではない。

 性的趣向や性の自意識は、本人の努力の問題でもなければ、育った環境の問題でもなく、社会(あるいは大多数の利己主義者たち)が勝手に彼らを苦しめるように仕向けたに過ぎない。


 それぞれの個人の性格や、考え方に合わせて環境を整えることさえできれば、マジョリティ、マイノリティという区分すら、ほとんど意味のないものになることだろう。
 しかしそうじゃない現状は、そもそも「人間を大量生産する」この社会自体の本質を示している。

 「大量生産された人間のひとり」であることに納得できる人間の気持ちはよくわからないし、そもそもそれが大多数だと言われても、私はそれに小さな個人として「NO」と言うだけである。

 私は「マジョリティだから」とか「マイノリティだから」とか、そういうことで個人を判断したり配慮することを、くだらないことだと一蹴していたい。
 くだらない人間のすることだと一蹴していたい。私は目の前の人がどのような人であれ、その人の持っているものだけを見て判断したい。

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