好感度は二種類ある

 分かりづらくなるかもしれないけど、とっとと言いたいこと言っちゃうね。
 好感度にはこの二つの種類がある。(今私が名付けた)
 『道義的好感度』と『実利的好感度』

〇道義的好感度とは

 いわゆる『善悪』で人を見ること。あの人はいい人だから好き、あの人は悪い人だから嫌い、ということである。これは自分との関係性とは関係なく、自分自身にとっての善悪や趣向の一致度によって決められる。(趣向も含まれることにする。顔の造形や喋り方、雰囲気も道義的好感度の亜種として今回は捉えるのでそのつもりでよろ)
 関係性によらない好感度、つまりキャラクターや著名人、偉人に対する好感度がこれである。

〇実利的好感度とは

 これは道義的好感度とは逆に、自分自身との関係性によって決まる好感度である。
 自分にとって利益となる人物、つまり仲間や敵に対する好感度である。
 これは動物にも備わっているものであり、自分にとって「得(≒快)をもたらす者」に好意を覚え、自分にとって「損(≒不快)をもたらす者」に敵意を覚えるという感覚。
 人間は意外にこれに引っ張られるもので、たとえば、相手がいい人だと分かっていても、立場上自分たちにとって損であることをするしかない場合、その人間に対して敵意を持ってしまう。
 逆に相手が悪人であると分かっていても、その人間が自分に優しくしてくれたら、それに好意を持ってしまう。人間はどうあがいても自分自身との関係性によって相手を判断する生き物である。


 私は基本的に、その比重に差あれど、全ての人間がこの二つの基準をもって他者を判断していると思っている。他者に興味のない人間ほど実利的好感度に重きを置くと思うし、共同体としての意識が強い人間ほど、道義的好感度に重きを置くと思う。
 この二つは一致している時非常に気分がいい。自分に得を与えてくれる人が、道徳的にも本能的にも好ましい人物であるとき、人はその人のことをためらいなく好きになれるから、とても楽である。厄介なのは、この二つが異なっている時。それについて考察を深めてみよう。


〇道義的好感度が高く、実利的好感度が低い時

 これはつまり、道徳的には素晴らしい人物でも、自分にとっては厄介な人物、ということである。
 例を出そう。たとえばあなたが「人助けは素晴らしいことだ」と思う人物であったとしよう。「誰にでも分け隔てなく接することは素晴らしいことだ」と思う人物であったとしよう。
 そのうえであなたの両親が、誰にでも分け隔てなく接し、人助けに奔走する、誰もが尊敬するような人物であったとしよう。その両親は、子供であるあなたにももちろん優しく接してくれるが、しかしその接し方は、他の人物に対するのとそう変わらない。つまり、自分を重要視せず、生まれた時からずっと何億人のうちのひとりとしてしか扱ってくれなかったとする。
 これはなかなか複雑な気持ちである。

 また別の例を出そう。あなたにはすでに所帯があったとしよう。守るべき家庭があったとしよう。相手の人物は非常によくできた人物で、人徳もあり、とても親切にしてくれている。その人はどうしようもなく異性として魅力的で、自分の体がその人物を反射的に求めてしまうとしよう。これは非常に厄介な状態である。実利的に考えて、その人物が自分のそばにいると、自分の生活や生き方に支障をきたす可能性が高い。実利という点では、非常に不都合な存在である。だがその事実によって、その人間の魅力が消えることはない。これもまた、厄介な状態であると私は思う。

 そういう時にどうすればいいか、どのように認識を変えていけばいいか、ということはここでは語らない。そんなのは、それぞれの事例によって異なるからだ。よく考えて判断しようとしか言いようがない。ただこのような状況になることは生きていたら一度や二度はあると思うので、準備をしておくのは悪くないと思う。


〇実利的好感度が高く、道義的好感度が低い時

 おそらくこちらの方が多いことだと思う。自分の認識や価値観にとってあまり好ましくない人物が、自分にとって得となる場合。
 たとえば、自分のことを気に入ってくれている性格の悪い上司。(それ以上の説明はいらないと思う)
 自分にとって生き方が気に入らない親。(そういう時期がある人は多いと思う)
 自分にとっては興味はないが、いつも親切にしてくれている異性。(いい人だけど魅力はない、みたいなの)
 こういう人を嫌いになると『恩知らず扱い』される。

 こちらはあまりにも多いことだと思う。自分にとって得になる人物だけど、もし自分と関わっていなければ、興味を持たなかったり、あるいはできるだけ関わりたくないと思うような人物。
 自分の趣味には合わないけれど、自分の生活にはとても役に立っている人物。

 まぁこれを多いって感じてしまうこと自体が、私の性格の悪さなのかもしれないけれど。あるいは、私の趣味とか道義の厳しさ……なのかもしれない。よく分からないね。


 ともあれ、自分にとっての損得と、自分にとっての善悪のどちらを優先するのか、というのは人によって異なると思う。たったひとつの基準だけで他者を判断する人は滅多にいないので、まぁ何というか、両方とも意識して生きていた方が、人と関わるうえで楽だろうなぁと思う。

 あと言ってしまえば、両方とも低い場合以外はめちゃくちゃな敵意を向けられることはめったにないと思うので「できるだけ誰かにとっての『悪』にならないこと」と「できるだけ誰かにとっての『損』にならないこと」が、楽に人と付き合うためのコツだとは思う。まぁそんな生き方して楽しいのかって言われたらそんなことないと思うし、私はそんな生き方しないけどね。
 ただ、もし自分が「なんで嫌われたのか分からない」と思ったときは、相手の何に引っかかったか考えるうえで、この両方を考慮するのはいいんじゃないかと思う。

 お互いの利益に繋がっていたとしても決定的に趣味が合わない人のことは嫌いになるし、たとえ趣味と性格が合致してても、お互いにとって損となる存在を愛し続けることは難しい。
 人間関係というのは難しいが、いろいろと考えていると分かることもある。

 ちなみに、猫に道義はほとんどない。その猫にとって好ましい人間、利益を与える人間であれば、ほとんどの場合勝手に好いてくれる。つまり餌付けが正解。でも、地域の迷惑になる場合があるから、野良にはしない方がいいね。猫との利害を優先して人との利害を損うのは……私ならちょっとしんどいかなぁ。いやぁ、この時代の人間はねぇ、とってもわがままですからね。あんまり怒らせたくないですね。はい。

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