今月は一冊も本を読みませんでした!

 まぁ何をもって「読む」と言うかなんだけどね。

 多分開いた本の冊数は、二、三十冊くらいだとおもう。その、数ページしか読んでないのも含めてだとね。もっと多いかもしれない。
 ただ最初から最後まで読み切ったのは、一冊もないと思う。ほんとに今月は真面目に読書しなかった。図書館で借りてきた本は……月初めごろに十冊くらい借りてきて、読んだ覚えあるけど、何を読んだかほとんどさっぱり覚えてないから、多分ろくに読んでないんだと思う。そうだよね。あぁそうだ。シェイクスピアの感想文書いたのが、七月二十四日で、そのときに借りた本は全部返しちゃってから……何の本借りたっけ? 何冊か借りた覚えあるけど、あ、そうだ。イギリスの文学読もうって思ってキプリングとかそのへん借りてきて、ざっと読んだけど、ほんとにざっとだったから、あんまり読んだっていう実感がないんだよね。目を通しただけっていうか。内容も全く覚えてないわ。

 んで、本棚に置いてある本を適当に取り出して読みたいところだけ読むのは習慣でほぼ毎日やってることだから、一応読書ではあるけど、それを「読み終える」とは言わんよね。学校に通っている人が教科書を開いて「今日も本読んだぁ!」って言ってるようなもんだからね。っていうか、教科書読んでたら本読んでるって言ってもいいんじゃない? 読書冊数に教科書も含めたら、子供の読書量って大したもんじゃない? そうだよね。みんないっぱい本読んでるじゃん偉い。

 本ってさ、読み終えると征服感あるよね。読んでやったぜ、っていう感覚がある。私あれ、危険だと思ってる。だってそういう風にして読んだ本って、ほぼ必ず読み返さなくなるじゃん。読み終えたことに満足しちゃってさ、その本にもう一度向き合おうっていう気が失せるじゃん。それだけじゃないよ? その初読後の感想を書いた後に満足するのも同じことだからね。まぁ何も書かずにしまい、よりはマシかもしれないけど、結局本っていうのはそれに内容があればあるほど、繰り返し読まないとあまり意味がないと思う。人間の記憶力って欠陥だらけだから、一回読んだだけで理解して記憶するなんて、読書の天才でもない限り無理だよ。つーか、それができる読書の天才って、もはや読書以外何もできないくらい読書特化型の人間になっちゃうんじゃない? うーん。どうでもいい。

 もっと本読まなきゃ! とは思わない。でも正直、noteを見て回ってるよりは、まだ読んでない名著に触れた方がいいのではないかという疑いはある。最近、人のnote見過ぎ。自分のnote見過ぎ。いやまぁ正直、自分の文章が読んでて一番楽しいし、気分も落ち着くから、そっちに流されちゃうのは仕方ないと思うんだけどね。

 正直さ、優れた本を新しく読むと、それから影響を受け過ぎちゃって、自分の文章も変わっちゃうんだよね。それがちょっと怖いというか、noteをはじめてから時々悩んじゃうんだよね。
 あとはそれとは別に、先人たちの優れた文章に触れれば触れるほど、私の頭がどんどんぐちゃぐちゃになってしまっているというのも事実で、ここらで少し本を読むのを休憩して、自分というものを整えたいなぁとも思ってるんだ。

 私は自分の特別多いわけでもない読書経験に誇りと自信を持っているから、本を読まなきゃとは思ってないんだよね。
 私、自分が読書について誇りに思っていることがあるとすると「悪書を全然読んでいないこと」なんだよね。それって、たくさん読むことなんかよりずっと重要なことだと思う。読み流すしかないような文章にばかり触れてると、読み流す以外のやり方で文章が読めなくなっちゃうんじゃないかと思って。そんなことないかな? まぁ、どうでもいいけど、私は多読というものを基本的に全部無駄なことだと思ってるんだ。漫画を読むのと変わらない娯楽だと思っている。

 今レヴィナスの「存在の彼方へ」をヒーヒー言いながら読んでるんだけど、正直、カント、ヘーゲル、フェヒテ、シュリング、ハイデガーとかよりはずっと読みやすい。訳が新しいのもあると思う。
 正直この本に向き合ってると、精神自体がそっち方向に歪められるのを感じる。現象学の方に。
 私はもうちょっと素朴な世界観の中で生きていた方が呼吸しやすいし、観想的な生というか、学問的な生は、自分の体に合ってないので、正直避けていたい。
 でもめんどくさいのは、理解しようと思ったら、どう考えてもそっち方向に考えをシフトしなくちゃいけないってことなんだよ。聖書読むのよりも大変。聖書はただそれを読んでいるときだけ神を信じればいいから、割とすっと入っていけるんだけど、あの系譜はなんていうか、前提となる知識体系が結構確立してて、そこから出発して論を展開していくから、その知識体系に自分の体と認識を慣らさないといけないんだよね。正直、ゲロゲロきつい。頭の性能的にも難しいし、生き方的な相いれなさもしんどい。
 でもレヴィナスのこの本に関しては……結構面白い部分もあるというか、責任や神にまつわる部分、道徳的な問題自体を現象学的な方法をもとに考えを進めていくから、なんていうか、ただただ面白いし、深刻な部分もあるというか、必死さが伝わってくるというか、人間的な部分が見えてくるというか、そういう点もあって、とても悩ましい。
 正直、文章から感じられるレヴィナスの人格は魅力的に思う。でもその話している内容を厳密に理解するためには、多大な労力と自己変革を必要とするんだろうなぁって考えるとね、難しいよね。

 とりあえず、読む。理解できなくても、読み終える。それだけは決めてる。多分たくさん誤読すると思う。多分誤読したまま、感想を書くことになると思う。

 安部公房の『壁』も同時並行で読んでる。こっちはすぐに読み終わりそう。『砂の女』しかまだ読んだことはないのだけど、安部公房はなんというか、奇妙なんだけど、奇妙さゆえの安心感というか、人間らしさみたいなものを感じられて、いい。肩の力を抜いて読むことができるし、くすっと笑える箇所もあって、読むのが楽しい。それでいて、決して浅薄なだけではないというか、皮肉的なものに終始しているだけでない、という感じがとてもいい。

 『壁』は二回読み終えてから感想を書く予定。砂の女もそうだったけど、こういう質のいい物語は二回目読むのが一番面白い。物語全体の流れをすでに把握しているから、それぞれの言葉の意図や、物語全体におけるそのシーンの役割のようなものを意識して読むことができる。無意識的に読み飛ばしてしまった箇所を拾い上げることができるのもいい。

 私さ、思うんだよね。「本を一冊読んだ」っていうのは「その本を最低でも二回は通して読んだ」っていうことにした方がいい気がするんだよね。そうだね。たとえば、入試の時の文章って、一回しか読まないことってありえないじゃん? 必ず、読み間違えがないか読み返すじゃん? 多い人だったら五回くらいは読むわけじゃん? てかそれくらい読まないと、間違えているんじゃないか、勘違いしているんじゃないかって不安になるじゃん? それが難しい文章であるほど、さ。
 だから普段読む本も、それくらいの注意深さで読んでないなら、それって読んだって言わないんじゃない? 厳しいこと言ってる? んでも、読解ってそういうことじゃないの?

 私って多分読解力、人より優れてるわけじゃないと思う。ただ人より慎重で読むのが速いから、同じ文章を読んでも人より多くのものを感じ取れるんじゃないかなぁと思う。
 なんか、文章に対する態度が人と違うなぁとは常々感じてる。書くことに関しては人より雑だし、読むことに関しては人よりていねい。普通は、逆かも。私、読むより書く方が楽だ。楽だし、楽しい。

 ともあれ、私は文章を書くときは、書くために書いていて、文章を読むときも、読むために読んでいる。それ自体が目的なのであって、それによってどうこうしようという意図は全くない。

 成長したいとも思ってないし、技能のレベルを上げようとも思ってない。やってたら勝手に成長するものだと思ってるし、たとえ成長しなくても続けることだから、どうでもいいと思っている。

 人と喋るのが楽しい、という人は多いと思う。文章をていねいに読むというのは、人の話をていねいに聞く、というのと似ている。結局おしゃべり好きでも、色んなタイプがいるんだろうし、色んなタイプがいていいんじゃないかと思う。
 読書もそうだ。好きなようにやればいい。私は私の読み方で読むし、その人はその人の読み方で読めばいい。

 なんかさ、多様性で雑に締めるのって簡単だよね。「私はこう思うけどみんな好きにすればいいと思うよー」って、すごく収まりいいし、便利だよね。でも本当にこれでいいんかな? まぁ別に言いたいこともないし、今はそれでいいや。どうでもいいー!

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