当たり前のようにできていること

 こう言うと傲慢に聞こえるかもしれないが、私にとって「当たり前のこと。できていて当然のこと」が、他者にとって「極めて難しいこと」であることは、とても多い。
 それが当たり前にできるようになったのは、何も恵まれた天性によるものだけではなくて、日々の習慣や無意識的な努力の結果も多分に含まれていると思うので、それで何か「自分はスゴイ。特別だ」などと言うつもりはない。

 問題なのは、私自身が私のその行動や能力を「当たり前」だと思うことによって、他の人が相対的に捉えて「あの人が当然のようにできていることが、私は努力をしても全然できない。私はダメなやつなんだ」と感じてしまうことである。

 つまるところ、私がただそこに存在しているというだけで、ある特定の性格の人は、不快感を感じずにいられないのである。(もちろん、それは私に限った話じゃないし、あらゆる人間関係においてよく見られる現象であるので、それで私が罪悪感を感じるのは変な話である)

 人間は、時間と共に能力が成長したり衰えたりするもので、年をとれば、昔はできたことができなくなっていくのが通常である。
 自分が今そのとき当然のようにできていることが、別の人間にはとても難しいことであることも、未来の自分にとっては「なぜそれが当たり前のようにできていたからわからない」ということも、あり得るのである。というか、加齢によって能力が衰えるのは、そうじゃない人の方が珍しく、大半の人間は「自分が色んなことをできなくなっていく感覚」を生涯のうちに必ず感じることになると思う。

 備えは必要である。今その瞬間、自分が当たり前にできていることを、大切にしておいた方がいい。
 それがあくまで「その瞬間の自分にとっての当たり前」でしかないことを認識して、決して「世界、および人間すべてにとっての当たり前」だと思わないことにしよう。
 そうでなくては、いつか自分自身のことを「当たり前のことすらできないダメなヤツ」だと思ってしまう羽目になる。

 自分の能力は、自分の能力であると素直に認めておいた方がいい。さらに上を目指すにしても、その能力で自分のできることを探すにしても「今の自分の能力をもとにした基準」だけを持っているのは、危険だと思う。人を見下すことにも繋がってしまう。

 多分noteをやっている人は、人より文章を読んだり書いたりするのが得意な人が多いと思う。
 文章を読める、書ける、というのは、私たちにとっては当たり前のことだと思いがちであるが「文章の読み書きがスムーズにできるというのはひとつの特殊能力である」という基準も、持っておいた方がいいと思う。
 「文章を普通に読んだり書いたりできる俺ってスゴイ!」なんて思う必要はないが「文章を普通に読んだり書いたりできるというのは、一個の特殊な能力であり、万人が持つ能力ではない」ということを頭の片隅においておいた方がいいと思う。
 少なくとも、そう考えて生きている人は一定数いるのだから。
 文章を普通に読むことができなくて悩んでいる人もいれば、文章を普通に書くことができなくて悩んでいる人もいる。だから、そのようなものの見方も、忘れないようにしよう。

 普通の読みやすい文章がまともに理解できない人がいても、腹を立てないようにしよう。
 彼らに何かが欠けているのではなくて、私たちがいいものを持っているだけなのだから。

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