政治についての個人的考え②

 返信を書いていただいて、本当にありがたく思います!
 私が政権をとったあかつきにはには個人的に十万M(睦月)ポイントを進呈します!(腐敗)

◆ 元々note

◆ 元note

◆本note

 さらに、さらに長くなってしまいました……並べて読まないと何が何だか分からなくなっていると思います。
 私自身はnoteを私自身の楽しみのためだけに用いていますし、時間だけはあるので大した負担ではないのですが、何というか、ご迷惑になっていないかとても不安になっております。


・批判という語について

 批判ではなく捉え方の違い、というのは正しくその通りだと思います。ただひとつひとつの表現を取り上げて「私はそうは思わない」という形に近くなってしまったので、そういう意味では「批判的な印象があるなぁ」と思い、そう表現しました。ただこれに関しては、アレですね。天果さんはその辺を誤解するような方ではいらっしゃらないので、無用だったかもしれません。

 ただ……自論の展開、というにはあまりにも、私の記事は「論が迷子」なので、本当にただ「個人的見解を述べただけ」なんです。で、個人的見解を述べただけのつもりでも、批判と受け取られることがこの時代往々にしてあるので……そういうことですね。


・政治の本質

 分配はおまけである、と考えております。というのも『政治』に含まれる語の範疇は、民主主義に限った話ではなく、それこそ古代の文明の中にも『政治』とされるものはあり、その動き自体の基本構造が現在と共通してる部分は多くあります。『分配』が十分に行われていなくとも、優れた政治(安定した政治)が行われていた時代もあるので、やはり政治の「本質(基本、根本に近い概念として)」は分配ではなく、秩序の維持にあると考えられます。秩序が維持されていない政治は、そもそも政治としての機能が中途半端であり、逆に秩序が維持されているのならば、それがどのようなものであっても、最低限の政治としての機能が果たされている、という考えです。

 再分配について、公共施設が整っている時点で、すでに分配は果たされている、という考えです。
 それを一様態として捉えるのは正しいですが、しかしそれこそが、大部分を占めるメイン部分、であると私は思います。それ以外はおまけ、だと思っています。(もちろんその部分は放っておいていい、ということではありません。ただ、ある程度は犠牲にできる部分である、というだけです)
 「多くの人間に向けて何かをする」ではなく「多くの人間が利用できる設備を整える」が、政治における有意な仕事の大部分を占めていると思っています。
 
 「資源の再分配を通じて秩序を維持すること」という考えには、賛成します。
 「秩序の維持のための策のひとつとして、資源の再分配があり、この時代における政治のもっとも重要な部分のひとつは、そこにあるかもしれない」というのが、私の見解を端的に述べたものです。
 しかし「国家は、効率よく資源を再分配するために秩序がぐらつくようなことを強行することは、できないしすべきでない」というのもまた私自身の意見であり、それがひとつの「多くのことが説明されない理由」でもあると思います。


・人々に利する理由と国家の安定

 税を集めるのは、人々にそれを還元するためではなく、既存秩序を維持するためです。人々に利するのは、それが国家の安定に直接的につながるからであり、国を豊かにしようとするのも、国が豊かである方が、安定するからです。豊かさは、他国からの信頼にも繋がります。それは一個人のためではなく、国家というシステム自体のためのものであり、そうでなくては問題が生じるのです。

 この考え方は、歴史的な観点と、実際的な国家の動きを見て、そう判断しました。国家は歴史上常に個人や人々を犠牲にしてきましたし、犠牲にする限りにおいて、発展してきました。
 私は「どうあるべきか」ではなくて「実際にどうであるか」を見ています。
 つまり「国家の言うことは基本的に全て、己(国家)自身のためのものであり、各個人のための思っての言葉ではない」と思ってます。
 国を動かしているのは人ですが、その人は「より高い立場の人」や「より多くの人」に動かされています。「もっとも高い立場の人」ですら、実際都合上、他の集団から行動も思想も縛られますし、システムそのものからも「このように考えろ」と仕向けられます。その通りに仕事をしなくてはなりませんから。

 ただこれに関しては、捉え方の違いであり、正誤の話ではない、と私も思います。

 そもそも「人びと」の範囲が不明瞭でもありますからね。日本国内のすべての個人のことを言っているのか、それとも国外の人をも含めているのか、とか。犯罪者や乳幼児も含めているのか、とか。
 私の見解によると、それは国家が後から定めた「方針」に基づくものですが、その「方針」は万人が定めたものではなく「少数の知識ある人が決め、力を持つ人(現代であれば、大多数)がそれに同意を与えたもの」です。そしてそれそのものが政治であるならば、やはり、天果さんの見方も、ある面においては、正しい。

 そうですね。人は自分たちのために国家を建て(ていると思い込み)国はそのシステムのために人を使って(いると思い込んで)います。
 「在る」のは、複雑な動きだけで、それがどのような「理念」に基づいて為されているかは、見方の問題だと思います。人の数だけ理念があるならば、その理念の数だけ正しさもありますので……
 時間と出来事に目を向けるのなら、日本という国は、明治維新も、戦後の復興も「世界的な流れにあって、必要に迫れて、色々と無理して作られた」ので、もちろん、それを作った人の心の中に「人々のために」という思いがなかったわけはないので、そういう意味では「人のための国家」は正しいですし、同時に「国を維持するためには、国民をうまく利用しなくてはならない」という実際都合上の基本的な立場、態度というものがあったのも本当です。
 国民のために国家を建て、国家を維持するために、国民をリソースとして消費する。それが実情、だと思います。
 もちろん、時代が変われば在り方も変わりますし、国籍がある程度自由に選べるようになる時代が来れば、まさに国家は国民を都合よく使うことなんてできなくなりますし、それこそ、企業同士が争うように、国家同士が人気を賭けて争うことになりますので、その時にはいろいろと……ここで語ったことはひっくり返ると思います。分かりませんね、先のことは。


・今回の給付金に関して

 当然のことですが、お金を集めて、それを配るという一連の動きの中に、そこに雇われる人が産まれ、そこに給与が発生し、そのようにして得られた金がまた消費され別の人間に渡され……というような一連のサイクルによって経済が機能するので、動く金の総量を減らすことによって個々人の生活を楽にしようとすると、結果的に、仕事の数が減って、職の奪い合いが激化し、雇用者と被雇用者のパワーバランスが崩れ、個々人が全体的に不自由な生活を余儀なくされ、そうすると、必然的に治安が悪化し、秩序の維持にも問題が生じてくる、という、前例がいくらでもある文明国特有のフルコンボが発生するわけです。これを一言で言えば、不況、です。

 これに対して「集めて配ることで生じるロスも一種の還元(もしくは分配)なのだから、無駄ではないのでは?」とするのは少し違います。
 「金を減らすこと」にもお金がかかるので、そういうところにお金を使ってしまうと、それが不況の原因となるので、お金を減らさない方針でお金を使うとしてもそれは、また別の意味での「ロス」となり、さらに厄介な状況を引き起こしかねない、と思うのです。
 今ある以上に税金を減らしたり、国民の負担を減らすための制度を新しく追加する場合、永続的にかかる金が増加します。しかもそれによって、国家内におけるお金の動きが(GDPという言い方もできるでしょう)が減少する。それは、非常にまずい。

 あと「別のところに税金を費やす」ということも、難しいんです。維持管理できない建築物や制度を、金が余っているからといって作ってしまえば、それが一時的な効果をあげたとしても、最終的な効果はゼロ、いや、マイナスになりかねない。実のところ「無駄」である分には、それほど大きな問題ではないんです。政策は、常に「負債」になる可能性を持っていて……だからこそ、今の日本の借金が多いという現状もあるんです。国民が求めるものを際限なく追加していった場合、それはもう、国家の場合「建てておしまい」ではなく「この先ずっと運営しなくてはいけない」というわけですから、金はそう簡単にうまく使えるものではないんです。
 まぁ、短期的な利益が一切見込めない科学的な分野への支援などに浮いた金を使うのは有意義なんですが……それも、一時的に金を使って支援しても仕方がなくて(長期的な成果は見込めないので)必然的に、永続的で莫大なお金がかかるので、こういう不安定な時期に、そういう部分への出費を増やすのは、まず間違いなく国民が納得しない。
 国民が納得しつつ、その後の国家の財政に問題が起こらないようなお金の使い道って、実はそれほど多くないんですよ。困ったことに。できることはもうすでにほとんどやってますし、それ以外に何かすごいアイデアがあるのだとしても……それってやっぱり、経済の専門的なエリアに属する問題ですよね。


 「お金を集めて、それを配るという一連の動き」がなく、その余分な税金の使途もなければ、国は別のところに税金を費やすだろうし、国民は別の用途で金銭を消費するだろう

 これは間違ってはいないのですが、少々楽観的すぎると思います。「今回、浮いた金を国民も納得する形でどう使うか」というのは、本当に難しい。新しく公共設備を建てると、借金がさらに増えることになるし、また増税しなくてはいけなくなる。そうすると、次の選挙も危うくなる。消費増税は、まず間違いなく苦肉の策でしたし。
 それに……かつての世界恐慌のことなどを考えると、何というか……やっぱりバラマキは、無難な策だなぁと思うんです。ニューディール、うまくいったわけではないんですが、全く無駄だったわけでもありませんし。
 経済学的な観点で見ると、バラマキは無難であり、選挙的な観点で見ると、まぁまぁ効果アリ、というわけです。


 アピールであることは承知のうえで、それには意味も効果もないよ、と主張していることに関してなんですが、実のところ、経済活動への意味や効果は薄くとも、アピールとしての効果が一定数であるならば、「アピール効果ないよ」と言ったところで、それはその人が勝手にそう思っているだけです。

 アピールに効果があるかという根拠は、おそらく私たちがこれについて語っているというだけで十分でしょう。つまり、本来政治についてあまり考えを示さない人間たちが、実際に語り合うきっかけになった、というだけで、政治的アピールとしては一定の成果をあげてますし、私自身がこのようにして政府の政策に対して擁護する側の立場に立っている時点で、やはりそれは、一定の効果と言えるのではないでしょうか?
 もしこのような「バラマキ」を無駄だと主張する人が一定数以上増えれば、もう二度とその政策はとれなくなりますし、もしそうなったとしても、それもまた、政治的な行動の結果によってそうなるのですから、無意味ではありません。
 この現代において、この政策は「賛否両論」になるのですから、一定の価値はあるんです。

 それこそ、言ってしまえば「アピールに効果なんてない。無駄だからやめろ」という人に対して正面から反対する意見は「でも十万円もらって生活が少し楽になった。ありがたい」です。どちらも、主観的な感情論なんです。
 アピールに効果があるという根拠は、十万円もらって喜んでいる人がいるというだけでも、実は十分なんです。それが民主主義政治です。政府の決めたことに対する反対意見は強く言われるものですし、実際以上に大きく見えがちですが、逆にそれに助けられたり、ありがたがったりする何も考えていない人たちの意見は、小さくて、穏やかです。それが大多数であることも、当然多々あります。サイレントマジョリティーという言葉、私嫌いなんですけどね。どんなことにも言えそうなので。でも今回ばっかりは、そういう感じだと思います。

 あと、年収が少なくて生活が苦しい人は元々、減税の影響を受けづらくて(かかる税金が元々少ないので)減税で助かるのは、ある程度生活に余裕がある人なんですよね……最低限貯金ができている人にとって、給付金はあまり大きな意味はないかもしれませんが、ほとんど貯金のない人からすると、この給付金は本当にありがたいものであると思います。そして現代日本において、そういう人の声は小さいですが(自分から「私はほとんど貯金できないほど貧乏である」なんて言える人は、あまりいませんので)数自体は、とても多い。数字がそれを示しています。
 実は、一番声が大きいのは、ある程度数がいて、他者に対して誇れるくらい収入のある人なんです。そういう人は、日本人の大多数が自分たちと同じような生活をしていると思い込みがちですが、実際のデータ上の世代別年収分布を眺めて、生活に余裕のない人の数を確かめてみてもいいと思うんです。あんまりいい言い方ではないですが……


・政治に対し説明を求めること

 これ自分で読んでて、ちょっと言葉選ばなすぎだったなぁと反省しております。そんな強く言う必要なかったですし……この意見もしょせんは個人的な「私はこう思う」なので、うん。反省します。

 説明を求めることに関しては……でも今冷静に考えるんですけど、こういう政策を丁寧に説明することっていうのはものすごく難しくて、当然専門的な知識が必要になるんですが、おそらくそこに人員を割く余裕はないのではないでしょうか。(もちろんこれも推察なのですが……ただ、そういう説明を誤解なくするのにも、多大なる労力がかかる、というのは事実だと思います。それができていない、というのも事実でしょう)
(私個人としては金本位制と固定相場制の違いとか、そういう基本的なことすら、認識がぼんやりとしていて、おそらくそれは大多数の人がそうであるでしょうし、もし経済政策を説明するなら、そういう基本的な部分が始めないといけない。だから誠実に説明しようとすると、大学の講義みたいになってしまうのではないでしょうか……)

 天果さんの言うように「それ(十分な説明)ができていないから、分からなくて不満だ」と考えるのは、非常に自然なことですし、そう考えている人が一定数いる以上は、政府はそれについてある程度対応を取る必要がある、というのは間違ったことだとは思いません。

 経済政策についての専門的知識があり、責任を負えるほど高い立場にあり、人々の知識レベルも熟知し、幅広いデータを集めてそれを提示しつつ、最大限の無知への配慮を行えるような人材を、用意して……と、なかなか大変な仕事になりますが、完璧を求めても仕方がないので、そこそこの人材にそこそこの説明をさせる、というのが現実的な対応でしょうか。(しかし、中途半端なことをすると、批判の材料を与えることになります。マスコミと野党が騒ぎます。それなら、沈黙した方がマシ、という判断なのかもしれません。「勝手に勉強してろ」の立場を取る方が合理的、なのかもしれません。これも推察ですが)

 そして、ここまで語ると「運営」の話になって、やはり私自身の基礎知識が足りなくて、これ以上考えを進めることができなくなるんです。
 国に対して、一市民の立場から「こうしてほしい」と思うことは、別に間違ったことではないですし、素直なひとつの意見としての価値があるので、前の記事で私が言ったように「賢い人はおのずと結論するから説明を要求したりしない」というのは正しくありませんでした。それは「私はおのずと結論したから説明を要求はしないし、他の人間もそうするべきだ」という、単なる意見の押し付けでした。これは本当に反省します。

 どうしても説明は、一般レベルに落とすと「方便的」になります。そしてそれにも、技術が必要となります。それをするにもお金がかかりますし、見方によってはそれも「無駄」です。(しかし、前の記事でも言ったように、民主主義政治において感情的な「無駄」は、常に「放っておくとまずいこと」になります)

 感情のための、ある程度の説明は必要だ、とする意見に関しては、その通りだと思います。
 

・政治家について

 個々人の頭脳が明晰であっても集団になると愚かなことをしだす、というのは本当に厄介な性質です。
 でも日本の政治は、他国の政治と比べてみると、とても「マシ」です。めちゃくちゃ「マシ」です。
 他国の政治についていろいろ調べて思ったんですが、本当に日本という国は人的資源に恵まれていますし、政策も人道的です。穏健で、うまくやってます。国内で批判されてるほど、ひどくない、と私は思います。
 多分、この時代の人は「いい政治」に慣れちゃってるんだと思います。本当の意味での「悪い政治」を知らないんだと思います。その政治が、どれだけの努力に基づいてなされているか、というのが、私はどうにも、皆理解しておいた方がいいのではないかなぁ、と思ってます。

 私は自分の個人的経験の都合上、学校制度(それは選べるものではありませんでしたから……)に強い反感を持っていますし、同時に、国やそこで生きる人々の常識的な部分に苛立っている部分は多々ありますが、それでも、この国の内政はかなりまともな部類だと認めざるを得ません。
 批判はある程度、実情を把握していないと無視されます。「やろうと思っているけど方法がなくてできない」ということに対して「やるべきことができてない」と批判されても、謝ったり無視したり、結局その場しのぎ以外の対策がとれません。
 
 頭を使える以上は、自分の感情に基づいて何かを言うよりも、実情に即して「どうすべきか」と考える方が有意義かなぁと思ったのですが、でもここでも私は分からなくなるんです。

 自分を集団の中の「一」として見るならば、自分たちがその時不快に思ったことや不満に思ったことをそのまま政府に伝えるだけで「民意」となり「要望」となる。場合によっては、それだけで、形を伴ってなくても「批判」として機能する。
 しかし自分を、集団を見渡して合理的に判断できる「理性」として見るならば、その集団は自分がいなくても機能するし、その集団から出た言葉は、自分の気持ちとは関係なく、勝手に「民意」「要望」になっていく。ならば、政治家側の苦労まで想像できるのなら、そこまで配慮したうえでの「政治批判」を行わなくてはならないのではないか? と思うんです。
 つまり「問題を問題だ」というだけでは、何の発展性もなく、誰でもできることで、ただわめいている集団のうちの「一」に過ぎないんです。でも「それを改善するためには、どうすればいいのか。そもそもそれができない現実的な理由は何なのか」と考えるならば、そのほとんどは「政治家の怠惰」や「明らかな判断ミス」に原因があるわけではなく「仕方なくそうなってしまったこと」であることが多いと思うんです。
 説明をする、情報を開示する、というのもひとつの「手段」であり、それ自体にも、いろいろなしがらみがあり、コストもかかります。複雑な手続きがあるのでしょうし、人間関係上の駆け引きみたいなものも、いちいち生じてきてしまうことでしょう。「誰がやるのか」という問題も含めて、です。

 私はこれについて、昔からずっと、分からないでいるんです。集団としての「一」、つまり、自分の感情や利害に基づいて政治的態度を決めるのが正しいのか、それとも、実際に政治を動かす人たちの感情や利害まで考えて、そのうえで自分の行動を結論すべきなのか、ということが。

 いずれにしろ私が一個人である以上は、その影響力は極めて小さく、どちらを選んでも大差がない。でもその「大差がない」という考え方は、民主主義的な視点において、誤りです。その不協和も、私にはよく分からない。全体を見た時と、実際の自分を見た時の、そのサイズ感のギャップに、めまいがするんです。

 私は時々、私自身と同じ政治的なめまいを感じている人があまりに少ないことに、精神的な……いら立ちを覚えるんです。だからきっと、先ほども強い言葉を使ってしまったのだと思います。

 どうせ私が何を考えたって、何を言ったって、それが、多くの範囲に及んでいて、配慮をしている以上、政治家だとか立派な大人だとかは、私の意見に対して「若者なりによく考えている」とかいって、感心しておしまいなんですよ! 私には基礎的な知識が足りないし、それがあったとしても、私には力がない。基礎知識がなくとも、何も考えてなくても、私よりも大きな声で、実際に必要な声を届けている人がいる。そういう方々の方が、私なんかよりも、実際の政治に役立っている。

 あぁダメですね。こういうのは、よくないんですよ。等身大の私の立場から何かものを言うと、混乱してしまうんです。


・個人レベルでの納得

 「個人が納得できているかどうかは、そもそも無問題」というのはおそらく、私個人の話ですね。「皆がそうである」というわけではなく「理性的な見地に立って、政治を上から見下ろした場合」というわけです。
 「政府にとって」と言ってもいいです。私個人が生きてきて、自分が現実に対して納得できることなんてほとんどなくて、しかもそれを誰かが、重要な問題だと思って一緒に取り組んでくれたことがないので、そしてこの先もないと思うので、そう思うしかない、という個人的な事情に基づいていたかもしれません。


 言うまでもないことですし、何に納得できて、何に納得できないかは人によって本当に異なることだと思います。
 おそらく天果さんは「説明されていないから納得できない」のだと思いますし、そういう方は一定数いらっしゃって、そこに配慮することは、国家が必要とすべきことだと思います。それは「一定数いるから」です。それに関しては、その通りだと思います。

 ただ現状の国家の見解や立場は「説明を要求する層への配慮はそれほどする必要がない」というものになってしまっているので、それについては……もはや政治的な判断の領域です。
 天果さんのような方が今後増えていくようであるならば、そのような説明はされていくでしょうし、そうでない場合は、このままだと思います。


・政治的な不正への対処

 これに関しては、そうですね。不正に対する考えの問題ですね。
 不正はカビやほこりみたいなもので、人が生活していると必ず生じてきてしまうのですが、ずっと放ったらかしにしていると、ひどいことになります。しかしこれに過敏になって、アレルギー的になって、いちいち対処していたら、きりがない。
 だから、マスコミなどが、どうでもいい小さな不正に長い時間をかけてうだうだ言うのに、私は強い反感を抱いていたのかもしれません。そんなのは「善処します」の一言でいいと思うんです。まぁでもそれは、腐敗しやすい政治というものをあまりに信用し過ぎているからなのかもしれません。

 実は、マスコミや国民がどんな小さなことも、それが「面白そう」である限り、いくらでも追及するので、だからこそ、日本の政治は比較的不正が少ないのかもしれません。

 もしそうなら、私のこの感情論は、ただ危険なだけなのかも分かりません。
 


 国家観の違い、という点はおっしゃる通りだと思います。ひいては、私という個人と「国家との関係性」と、天果さんという個人と「国家との関係性」が、異なることにも、何らかの要因がありそうです。

 私という個人が、あまりにも国家にとって部外者であるかのような実感というか、私個人が国家というものを「自分とは別に存在するもの」として見ているからこそ、国家はやはり国家のために存在する、としか見れないのかもしれません。

 私は一個人として、日本人の両親から日本人として生まれたにもかかわらず、この日本という国は、私という人間をこの国を発展させるための道具として扱おうとします。多数ある資源のうちのひとつとして扱います。そういう、実感があります。私の進路が、私の意思ではなく「国の秩序の維持」という都合に合わせて誘導されていたような、実感があります。
 そしてそれは、外国の秩序を見てても、同じように思うんです。その国の人たちは、確かに、その国の維持のために「使われている」と。

 TRPGのゲームマスター、のような印象を、私はおそらく国家に対して抱いているだと思います。しかし……実際のTRPGでもそうであるように、支配者(ゲームマスター)が操作できるのはシステムだけであり、被支配者(プレイヤー)はいつでも、支配者の想像の外側に飛び出ようと欲しますし、私自身が、もうすでにその外側にいるような実感があるのです。

 それに、選挙というものは、どう考えても、そういう側面があります。政治家は皆、心の底では思っていないことを言いますし、その時点で「感情を含めて国民の行動(票)を操作しなくてはならない」と考えているわけです。そういうものだって、私は思っているんです。
 歴史上、人々は簡単に扇動されますし、その結果として成功することもあれば、ひどいことになったこともあります。
 ある程度国家は、国民を操作する力を持っている、というのは、事実だと思ってます。
 国家や集団から操作されているのに、それに気づかず自分で判断していると思い込んでいるときほど危険な状況はありません。そうならないためには、冷静に「国家が何を言っているか」ではなく「国家は何を狙っているのか」「何が目的であるのか」「この先どこへ向かっていくのか」見なくてなりません。
 国家を自分たち国民が操作できるものだと思うこと自体が、国家運営におけるもっとも危険な勘違いだと私は思っています。前例が、いくらでもあるので。
 
 おそらく天果さんが感じられた「ミスマッチ」は、私という人間が「視野の狭い感情的な一個人」でありながら「冷静に全体像を見ようとした」結果なのだと思います。私という人間が、その片方だけを軸にして語ることのできる人間ではないからだと思います。
 しかし、政治はやはり、その両方が絡んでくるものです。秩序を目指す以上は、不確定的な部分も、できるかぎりコントロール下に置こうとするしかないものなのです。コントロールできないなら、コントロールできないなりに、誘導するしかない、と考えていくのが、政治なのです。

終わりに

 言葉を重ねるからこそ、どの部分で見方が重なっていて、どの部分で異なっているかが分かりやすくなりますね。
 こういう議論(と言っていいのかは分かりませんが)は、難しいと思う反面、知的な意味で、率直に楽しいとも感じます。
 少ない言葉だと、相手がそれについて詳しくどう思っているのか、あくまで推察するしかないので、だからこそたくさんの言葉を重ねて、お互いの認識を少しでも寄せていけるのでしょう。本当にありがたいと思います。

 私自身、天果さんのご意見を誤読していないか不安で、だからこそ「独立した私の意見」に見えるような書き方をしている部分があります。実際、そうしていなかったらまずいことになっていたような箇所もあったと思います。

 こうやって、やり取りをしていると、自分の未熟さが浮き彫りになるなぁと思います。何というか、天果さんの高い理解力、想像力に甘えさせてもらってる部分、あるなぁって。

 遅くなりました。
 いつもありがとうございます。

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