臆病な私と他者への失望

 私は危険に敏感で、立ち止まることが好きな人間だ。

 それに助けられてきたこともたくさんある。ありがたいことに、私は私の人生で決定的な後悔をしたことがない。ふと「あぁしとけばよかったなぁ」という考えが浮かぶことはあるけれど、それも深く考えていけば「そうじゃないといけなかったんだなぁ」と最終的に結論できる。
 自分の中で、過ちでしかないと判断せざるを得ない過去を持っていないというのは、気楽なものだと思う。誰もが重たい過去を持っているとは思うけど、ずっと引きずる後悔は特に足をもつれさせるから。

 私は臆病だ。臆病ゆえに、行動をためらうことがとても多い。思いついたことのうちのほとんどは実行しない。
 たまに「思いついたら即行動。全部やる!」って言う人がいるけど、そういう人はそもそも思いつくことの数が少ないんだろうなぁと思う。同時に二つも三つもいい思い付きが浮かぶと、即行動なんて、できないから。
 いやでも、そういう人はそれをサイコロを振るような感じでひとつに絞ることができるのかもしれない。サイコロを振る、か。

 私は自分の将来をサイコロで占うようなことをしてこなかった。全部、必然的だったように思う。言い換えれば、都合のいい偶然にも、出会いにも、恵まれなかった。合ったのは、悲しいくらいに孤独な私の意思。
 最近、人は無意識的に人の意見や環境に流されているから、自分で決めていると思い込んでいても、実は決めさせられているのだ、という話をよく聞く。
 しかし私はなぜか、人の意見をよく聞いて従おうとしているのに、いつの間にか人の意見とは真逆の道を歩んでいた。

 本当は、勉学に励み、社会に役立つ人間になるために素晴らしい友人たちと日々切磋琢磨していたかった。どの道を歩むにしろ、私は、将来への安心感が欲しかった。
 それは、手に入らなかった。どうしようもなく、いつの間にか、誰も歩かないような道の上に立っていた。というより……自分が、人の歩く道の上には歩けない自分になっていた。

 誰と関わっても壁を感じる。私から勇気を出して近づいても、吐き気しか感じられない。
「連中は不潔すぎる!」
 ものをよく考えることができるようになればなるほど、ほとんど何も考えずに生きている人たちの言葉が醜く聞こえるようになった。


 私は臆病だ。これだけ傷ついてきても、まだ傷つくことには慣れない。何をやっても、傷つくことを怖がってしまう。
 入院していたとき、数えきれないほど採血をしたけれど、それは最初からあまり怖くなかった。毎度ちょっと痛いから、それに対する肉体の恐怖はあるけど、それだけだった。

 でも対人関係の恐怖は、それの比じゃない。嫌われるのが怖いんじゃない。変だと思われるのが怖いんじゃない。ただ……その、自分のその人への好意が、失望に変わるのが怖いのだ。
 勝手に期待しているせいなのだけれど、しかし行動をするには、期待や希望が必要なのだ。私は、他人に多くを求めすぎてしまう。でも、多くを求めないなら、そもそも必要がないのだ。私は他人をそれほど必要としていない。悲しいほどに、私はひとりでも生きていける。

 ひとりでいるのが当たり前になると、孤独を感じなくなる。孤独を感じるのは、誰かから拒絶された時。
「あなたは私たちとは違う人間だ」と言われた時。
「あなたとは分かり合えない」と、態度で示された時。
 ううん。違う。
 私が「この人とは分かり合えない」と、感じてしまった時。

 「きっと勘違いだ」と努力をして、できるだけ相手に伝わりやすいように自分を表現して、相手のことをより詳細に理解しようと努めて、それなのに、知れば知るほど確信を強めて、失望は深くなって、孤独の沼に沈んでいく。

 何度繰り返してきたことだろう? 人を理解すればするほど、その人間の美しさよりも醜さの方が気になってしまう。
 人は、自分の美しさを初対面の人に見せようとするから、悲しいことに、深く付き合って新しく見えてくるのは醜い部分ばかりなのだ。

 それはきっと私もそうなのだ。そう思うと、もう誰とも関わりたくないと思ってしまう。
 現実の人間は、遠くの方から眺めているときだけ美しく見える。

 誰よりも私のことを知る私は、長い時間をかけて、ずっと付き合って、向き合って、やっと自分のことが好きになれた。
 それを他人に求めるのは違うのだ。

 ほとんどの人は、自分の嫌な部分に目をつぶって自分を好きになるか、自分の嫌な部分を認める代わり、好き嫌いの判断を放棄している。

 私は人間にうんざりしている。どうしようもなく、私は、他人というものにうんざりしている。

 その人自身のことを好きになれないような人を、どうやって好きになればいいというのだろう? 私には無理だ。


 私は根本的に、人とは違うものを求めて生きている。きっとそれが私の孤独の原因だけれど、それを変えることはできないし、変えるつもりもない。
 欲するものを変えるというのは、その人の人生を放棄することに他ならない。
 欲し続けることがたとえ苦痛を産むとしても、その「欲しい」という欲求こそが生物の本質であり、もっとも大切にすべきものなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?